わが町のあゆみ
笹野台いまむかし
6. 町の形が出来てくる(昭和30年代)
(1) 新しい土地での暮らし
笹野台の一帯は三ツ境駅からの徒歩圏であったため、昭和20年代後半からあちらこちらにミニ開発が行われ始めていましたが、昭和31年に今の二丁目に市営の分譲地に百戸以上の住宅が建設されたのを皮切りに、本格的な開発が始まりました。それから数年間は、あまり町の様子に変化はありませんでした。
新しい住民は、緑の豊かな自然に親しんだり、近所との付き合いを大事にしながら、我が家の整備に環境の改良にいろいろと努力してきました。当時の人達の暮らしの様子を、境友自治会発行の『境友ものがたり』『続境友物語』の冊子からいくつか紹介しましょう。
① 笹を抜くのがたいへんでした
二丁目に造成された分譲地の一区画は100坪でしたが、建てた家は12~13坪なので庭は広々していました。庭には笹が根を張って、抜いても抜いてもすぐに生えてきました。造成前は笹藪が多かったのです。その頃、植木の苗や庭石を売りに来る業者がよく回っていました。崖の石垣の工事もよく見かけました。庭を整えるのがみんなの楽しみの一つでもありました。
子供たちは外で遊びました。夏の日には、家の庭にビニール製のタライを出して水遊びをしました。家の周りものどかだったので、道路でも遊ぶことができました。バドミントンとかキャッチボールをしたりしました。友達と近くの林の中を探検して歩いたり。野原を駆け回ったり、空地の崖に穴を掘って秘密の基地だと喜んだりしたものです。とにかく戸外へ出て遊ぶことが多く、それにはちょうどよい環境でした。
マリー幼稚園は、宅地の造成にあわせて建設されました。会館のまだなかった時には、ここが境友自治会の拠点のような存在でした。園庭で子供たちと夏休みラジオ体操会が行われたり、夏の夜、映画会が催されたことも今では遠い思い出です。
(注)笹野台と名付けなれたこの地域は、たしかに笹がよく生えました。庭を作るには、この笹の根をよく取り除くことが必要でした。宅地を造成している時、夜になっても笹を焼く火が見られたと、その頃楽老ハイツに住んでいた人が語っていたことを思い出します。
② 田圃・蛙・ホタルそして鯉も
50年前、とにかくここはまだまだ田舎でした。低い所には田圃や沼のような場所がずいぶん残っていました。山から流れてくる湧き水も多かったのでしょう。駅前坂を下がった所には、いつもきれいな湧き水が流れ出ている所がありました。また、湧き水の溜まった所もあって、そこの水が夏でも冷たかったのを憶えています。今は住宅になっていますが、あの地下水は枯れてしまったのでしょうか。
バス通りの脇やソルクレストの下の谷間は田圃でした。春先に谷戸田を歩くとゼリーのかたまりみたいに蛙の卵が田の脇の流れを埋めるほどで、のどかな風景でした。初夏の夜は蛙の声が聞こえていました。家の庭まで蛍が飛んできました。
朝夕は霧がかかることもありました。空気は町中よりも冷たくきれいでした。冬の寒さは少々きびしいと感じました。
狸がよく出没しました。町中で暮らしてきた新住民には珍しいものでした。狸は近くの林や藪に住んでいたのですが、しばらく前には溝を隠れ家にしたりして、時々あちこちの庭に顔を出したりしていたこともありました。
(注)矢指の森で蛍を育てているようですが、昔はこの町のどこにも蛍や蛙が見られたのですね。隣町の二つ橋に「権兵衛狸の恩返し」という民話が残っていたり、野境道路に「狸に注意」という立看板があるのをみたりすると、このあたりの里は昔から狸と縁があったようです。
③ 野境道路の桜並木
野境道路の桜並木は今では三ツ境の名物ですが、はじめは柳の並木でした。
住宅ができた頃も野境道路の道幅は今と同じでしたが、歩道と車道の区別も気にならないほどで、子供たちも道路を走り回って遊んでいました。真ん中に飛び出して交通事故に遭っては大変だと道沿いに住む上杉進之助さんが近隣の人に呼び掛けて行動を起こしました。自分たちの手で歩道を区切るための並木を作ろうということになり、柳を植えたそうです。並木が子供たちの安全を考える年配者の気配りから生まれたものであることはほとんど知られていませんが、よき時代の近隣の協力の物語として語り続けたいものです。
丈夫で成長の早い柳はよい並木になりました。人々も自然にその内側を歩くようになりました。柳の間に山桜が植えられた所もありました。皇太子のご成婚記念にお祝いの心を込めて植えたものです。
やがて、程ヶ谷カントリーの移設や若葉台団地の造成に伴い、野境道路は幹線道路として整備されるようになりました。柳は伐られ染井吉野(桜)が植えられ、今の立派な桜並木になりました。
④ 矢指の森は深かった
野境道路は中原街道の所で終わりで、その先は深い森でした。松や杉や雑木の繁る森の中は踏み分け道のような細い道があるだけで、今の追分市民の森と瀬谷市民の森も続いていました。うっかり奥の方に迷い込むと方向がわからなくなるほどでした。杉や松あるいは雑木が繁り、昼でも鬱蒼とした様子は、今もその面影を残している部分もありますが、かつては人もほとんど踏み入れないので、下草も思う存分に生育し、エビネ蘭や山百合をはじめ珍しいギンリョウ草という植物も生えていました。
オオムラサキ・アオスジアゲハなど蝶がしましたし、カブト虫もたくさんいました。朝霧の残る森でカブト虫を捕ったりしました。松ぼっくりほうりっこしたりする子もいました。ウズラ、キジを見かけたり、マムシに出会った人もいたようです。
周辺が開けるにつれ、この森へ植物や虫を採りに入る人も増えて森の様子も変わっていきました。やがて、ゴルフ場の工事が始まったり、県の広域水道企業団を作ったりして、工事用の大型車両も出入りするようになり、野境道路が通ったり、市民の森が整備されるようになりました。
⑤ 電車のドアは手動でした
三ツ境の駅は開業当時の姿でした。南側の三ツ境商店街の方に向いて小さな木造の駅舎が、ホームにはバス停のような小さな待合所が建っていましたが、印象的なのは上り下りのホームに大きな桜の木があって春には花が美しく、のどかな郊外の風景でした。
線路も単線で、チョコレート色の小さな電車が列車交換のためにホームに停車すると、運転手が車外に出て、ちょっと一服というようなのどかな風景も見られました。ホームに着いたのに扉が開かないのでよく見たら、手動扉と書いてあったので急いで開けて下車したこともありました。本数が少なかったので、乗り遅れると次の電車まで間があるので、瀬谷まで道路の脇を歩いて行ったこともありました。横浜~希望が丘間は複線でしたが三ツ境まで複線化したのは昭和35年頃でした。
⑥ 電話が引けた頃
電話が引けるようになったのは昭和37~38年頃からでしょうか。開け始めた昭和32~33年頃には家に電話を引くどころではありませんでした。電気関係の故障などの連絡で、どうしても電話連絡が必要になると、野境道路の角の大岡酒店まで行って電話を使わせてもらったものです。当時はこの辺りは電話も不便で、ダイヤル式どころか、一々交換台を呼び出して相手方につないでもらう方式だったのです。電力会社のこの地区担当の大和営業所へ連絡しようとし、呼び出しても交換台へなかなかつながらないことが多くて苦労したものです。お店のおばあさんから「電話がつながらないなら電車で行ったほうが早いよ」などと冗談を言われるほどでした。
希望が丘に電話局が新設されたのは昭和36年の秋でした。新しい電話局ができても、なかなか需要に追いつかないので、はじめは、一つの回線を二軒で共用する共同電話という形のものが使われました。番号は違うのですが同じ回線なので、一方が通話中はもう一軒は使用できません。当時はそれでも一応便利になったと感じていました。そんな共同電話も電話回線の増設によって間もなくその方式はなくなりましたが、携帯電話の普及した今では考えられないような話です。