わが町のあゆみ
笹野台いまむかし

3. 町が生まれる

① 開発以前の駅の三ツ境駅周辺
 笹野台の町は、相模鉄道三ツ境駅に近いというので、昭和30年頃から開発が始まりました。昭和20年代初までの三ツ境駅は、山間の小さな駅でした。周辺もほとんど林や畑、あるいは草原だったようです。特に、駅の北側、笹野台の側は未開発の農山村という状態でした。

 駅のあたりは、昔の相模の国と武蔵の国の境にあり、鎌倉郡阿久和村、都筑郡二俣川村、同下川井村の三村が接する所から「三ツ境」と呼ばれたようです。(「三ツ境」という地名などについては、いずれ項を改めて載せる予定です。)

 三ツ境小学校の社会科資料『わたしたちの三ツ境』(昭和57年11月発行)の中に、昭和24年頃の三ツ境駅周辺の図が載っていますが、当時の様子を知る手掛かりとなるでしょう。駅の北側には、広島さん、大岡さん、金子さん、阿部さん、相沢さんなどの家、東の方に進めば鈴木さんの家などがありましたが、家数も少なく、静かな場所でした。

 駅の南側、三ツ境の地域も(当時は戸塚区阿久和町鎌取)も人家は少ないけれど、北側に比べて比較的平坦な場所が多いので、昭和25年頃から住宅地の開発が始まりました。特に横浜市の住宅課により宅地が造成され市営住宅(木造平屋一戸建)が次々と建設されていきました。三菱ドックや昭和電工などの社宅も作られました。新しい住民を相手に駅前商店街が整備されていきました。

 現在の三ツ境の区域を中心に行われていた住宅地の造成が一段落し昭和30年、横浜市は線路北側の瀬谷区二つ橋に「市営楽老アパート」(現在の楽老ハイツ)を建設しました。コンクリート造り二階建ての集合住宅で、富士・丹沢を望むなだらかな斜面にゆったりとしたたたずまいを見せる環境に恵まれたこの集合住宅は、モデル団地として、関係者からも注目され広報誌や業界紙で紹介されるほどで、三ツ境の一つのシンボル的な存在となりました。

 それに次いで、横浜市の手により、分譲住宅や分譲として開発されたのが、今の笹野台二丁目、境友自治会のあたりです。当時は持ち家奨励が叫ばれていたという背景もあって、賃貸住宅ばかりではなく分譲も手掛けるようになったようです。

② 市営分譲住宅地
 昭和31年5月に横浜市建築局住宅課は『住宅金融公庫融資・横浜市分譲住宅地案内 横浜市三ツ境北団地』として宅地分譲の公募を行いました。場所は当時の地名で横浜市保土ヶ谷区下川井町大野1604番地、現在の笹野台二丁目です。

 この宅地の購入に当たっては、住宅建設資金十二坪、土地購入資金は50%を限度として、標準建設費、土地購入費のそれぞれ75%を住宅金融公庫から融資を受けることができて、一定期間内に建築を完了させるということが条件になっていました。

 この募集に先だって団地の一部は土地付き分譲住宅として売り出され、昭和31年6月には約30世帯が入居しました。木造瓦葺平屋建12坪の家でした。これが笹野台開発の第一歩といってよいでしょう。宅地分譲はそれに引き続いて行われました。土地付き住宅と宅地だけの分譲の時期がずれたのは、工事の進捗状況との関係もあったかもしれません。

 この宅地分譲の案内の冊子に「建設場所について」という項があり、それには次のような説明がありました。

 本建設地は、本誌の西方武蔵野のい一隅にして、遥かに大山連峰を望む清朗な大気と共に閉寂な環境を有する、しかも都心地に近々十分内外で達せられる南西または南東の緩斜面であり、附近には、すでに本市公営住宅ならびに一般住宅等約二千余戸存在し、徒歩五分の相模鉄道三ツ境駅付近には、既に日用品を販売する商店街も形成されております。教育施設については、小・中・高等学校が徒歩十分及至二十五分の間に存在し、まことに好適地な住宅地帯です。

自然環境についての説明はその通りでしたが、生活の便は実態にそぐわないこともあり、住みよい町になるために新しい住民の努力が続けられたのでした。

 当時は、今のように情報伝達の方法も発達していなかったので、役所などの公共施設での掲示や市電やバスの車内広告などで知らされていました。PRの不足もあったのでしょうか。この住宅地の分譲は順調に進みませんでした。申込者が重なって抽選を行った区画もありましたが、空地が埋まるにはしばらく時間がかかりました。海員組合の斡旋により入居した船会社関係の家も数十世帯あり、一時は「船員住宅」と呼んでいた人もありましたし、東芝や日本鋼管などの従業員が会社の斡旋を受けて転居して来た人もありました。この分譲地にすっかり住宅ができたのは、昭和32年も終わる頃でした。この住宅が造られたことが笹野台の町の開発のはじまりとなったのです。

分譲地造成中の笹野台二丁目
右上の建物は楽老ハイツ、森の手前が最初の分譲住宅。森は露木の森。

次回は、その頃この町に引っ越してきた人達の当時の思い出を載せたいと思っています。

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