わが町のあゆみ
笹野台いまむかし

3. 町が生まれる つづき

③ 引っ越してきた頃
 昭和31年から32年にかけて、今の笹野台二丁目の分譲地に住宅が並ぶようになりました。何しろ全くの山野を切り開いた所です。自然環境はこの上なく豊かでしたが、住めるように家や周辺を整えるには、とにかくいろいろな苦労がありました。戦後10年経ったとはいえ、まだまだやっと人々の生活が落ち着き始めた頃で、みんな生活の基礎を固めることに一生懸命な時代でした。

 境友自治会では設立40周年と50周年に際して、記念式典・祝賀会を開くとともに、自治会のあゆみをまとめて『境友ものがたり』『続境友ものがたり』という記念誌を作りました。その際の座談会の記録を見ると、この地に入居した頃の苦労話や思い出話がいろいろ載っています。今では考えられないようなことも多々ありますが、そんな時があったのです。そのいくつかを紹介しましょう。



笹野台二丁目の分譲地に住宅が立ち並びはじめた(昭和32年 小宮 彰氏撮影)

その1 駅に近いから・・・
 どこかに家を思い、あちこちと探していました。星川や西谷辺りも探しましたが、どこも駅から歩く距離が長いと感じました。この分譲地は、当時としては横浜から遠い感じもしましたが、何よりも駅から近いこと、水道が引けていることなどを見て、ここにしようと決めました。駅に近いから、通勤を考えると将来的には便利になると思いました。

(注)持ち家は多くの人の希望でした。駅に近いというのは通勤する人にとって大切な条件でした。

その2 まだブルドーザーが・・・
 分譲地があるというので、土地を買おうと現地を見に来たとき、入り口の方はある程度出来ていましたが、奥の方はまだ工事中のブルドーザーが動いていました。斜面は多いし、これで工事が予定通り進むのかという感じでした。(注)今のように建設機械も十分ではなく、工事も人力に頼る面も多かった時代です。

その3 家は出来たが電気はまだかいな・・・
 家を建てて一刻も早く移り住みたいという気持ちで早速引っ越してきました。昭和31年12月のことです。ところが、引越してきたもの家へ電気が引けません。電気は今の野境道路には来ていましたが、住宅内はまだ電柱を建てている最中、実際に配電できる状態ではありませんでした。バッテリーで豆電球をつけたり、ローソクを買ってきて明りとしたりしました。戦中戦後のしばしば停電のあった頃を思い出させるような夜が幾日か続きました。近所のすでに電気が引けていた家から一灯だけ引かせてもらい、風呂の明りはローソクでした。

(注)筆者は昭和31年11月末に引っ越してきました。電灯線を引けなかったので困りましたが、建築工事用に60ワットの仮設灯を引いてあったので、それをそのまま家に繋いで間に合わせました。12月下旬隣に越してきた方は、電気が引けるまで毎晩私の家に来て夜の一時を過ごした日が幾日かありました。電気が来たのは大晦日の前日でした。

その4 引越しで手製の電蓄がガタガタ・・・
 引っ越しの時、今の厚木街道を通ってきましたが、鶴ヶ峰からこちらの道は未舗装で凹凸が多い砂利道でした。トラックもスピードをあげるどころではなく、荷物が崩れないように気をつけて走るのが大変でした。それでも車が揺れて当時としては貴重な手製の電蓄がガタガタになってしまったほどです。

(注)テレビはやっと放送が始まった頃で、一般にはまだ普及していませんでした。ラジオ放送やレコードを聞くのによい音質の電蓄(電気蓄音機)が使われましたが、部品を購入して自分で組み立てる人も多かったのです。苦労して作った物が傷んでしまったのはくやしかったでしょうね。

その5 寒い冬でした・・・
 越してきた年は、ことのほか寒いと思いました。もともとこの三ツ境周辺は横浜でも気温の低い地域で、旧市内に比べると平均2度ぐらいは低いといわれていました。家の数も少なく電気や暖房も整わないので余計そう感じたこともあるでしょう。外に出ると霜柱の長いこと、霜解けのひどいこと、外のバケツに張った氷の厚いこと・・・。水道が凍ってしまったり、時には寒さでプロパンガスのボンベの先の器具が凍ってガスが出なくて、朝の支度で大騒ぎということも今では考えられないことです。

その6 郵便局や銀行は・・・
 敗戦後、日本はゼロからの出発で昭和31年頃はまだまだ貧しい中の生活でした。引っ越してきた所の町名は、保土ヶ谷区下川井町。当時の事で思い出すのは、急増した人口に郵便局が対応しきれず、新しい住民に郵便局の配達の仕事がまわって来ました。各班から組長さんが集まり、私の家で仕分けして持ち帰って各家にお届けした事です。この地、下川井町に根を下ろす事で、夫々が真剣そのものでした。この事が何時まで続いたかは今はもう覚えておりませんが・・・。

 銀行の支店も出張所も無く、横浜銀行の車が当時の三ツ境駅の先に駐車し、月一回の公庫の集金がバスの中で行われました。ほとんどの人が住宅金融公庫から建築資金を借りていたので、毎月返済するのが義務でしたが、当時は自動振替の制度などなかったので、毎月直接振込みをしていました。

 新開地での生活は、丹沢おろしの冷たい風で霜柱が深く深く張り、陽が照り出すと霜柱が解けてドロドロのぬかるみとなり、それが乾くと土ぼこりとなり、座敷ほうきでは間に合わず、始めて電気掃除機を求めました。それを横着者といわれた時代でした。

(注)郵便局や銀行のことでは、とても不便を感じていました。三ツ境郵便局ができたのは昭和33年、横浜銀行三ツ境支店ができたのはそれより暫く後のことだったと思います。

その7 どこまで続くぬかるみぞ・・・
 住宅はできたものの、周辺の道路の整備は遅れていて、通勤の往復には夏はぬかるみ、冬は霜解け、いつも長靴が必需品でした。長靴を履いて家を出て、駅の近くに長靴を預けて普通の靴に履き替えて会社へ出勤しました。長靴を預かることがひとつの商売にもなったほどだったのです。

 今の駅前坂も舗装されていなかったので、ひどいぬかるみでした。また、大雨が降って土が流され大きくえぐられてしまい、まるで滝のように雨水が流れて下の方は水びたしとなることもありました。

 勿論、車は通れません。坂の下の方の人は、東側の楽老ストアの方から廻って行ったりしました。相鉄から古い枕木をもらってきて敷いたりしましたが、じきに傷んで長持ちしませんでした。坂の舗装ができたのは、ずいぶん後のことです。

 下のバス通りの向こう側は田園で、道もひどい泥道でした。砂利を入れてもすぐに埋まってしまい、何度入れてもいくらでも埋まってしまいます。冬の朝は凍っているので歩けますが、昼間はぬかるんで歩けないし夜はその上暗い。下の道路沿いの家へ帰るのに幼稚園の方を回って帰ったりしました。団地へ来る駅の上の道も同様にぬかるんで困りました。相鉄から枕木をもらって敷くのに、金子さん、広島さん、大岡さんたちが協力してくださいました。

(注)その頃の道路のことはよく話題になりました。苦労はしましたが、住民で何とかしようと力を合わせて作業しました。自治会ができてからも道路担当委員が設けられました。

その8 買い物はどこで・・・
 主婦にとって、引越して来てまず気になるのが日々の買い物です。今のように電気冷蔵庫は普及していないし冷凍食品もありません。買置きもなかなかずかしい時代でした。

 駅の向こうには三ツ境商店街がかなり整ってきていました。日々の食料品や日用品はだいたい間に合いましたが、市内の商店街に比べれば客の数も品物もまだまだでした。

 駅の北側、笹野台の側は商店ほとんどありませんでした。ただ、野境道路の角に、大岡酒店があり、それに続いて『楽老商店街』といって小さな商店が並んでいました。市営楽老アパート(現、楽老ハイツ)の住民の便にと開かれた商店でしたが、米屋、食料品店、パン屋、青果店、洋裁店、肉屋、魚屋、などがあり、日常生活に使う物はここで一応間に合わせることができました。お惣菜の量り売りや、揚げたてのコロッケの匂いなどを思い出します。中には御用聞きに回る店もありました。客に頼まれると注文の品といっしょに他の店の品物も配達してくれました。

楽老商店街のあった場所
(注)今では理容店と居酒屋があるくらいで、ここに商店街が並んでいたことも忘れられていますが、当時は便利な存在でした。中央商店街の豊国屋も、はじめはここで店を開いてしました。歩道に一本残っている大きなケヤキの木は時代の移り変わりを見て、何を感じているのでしょうか。

※ 次回は「下川井のむかし」に触れましょう。

ページの先頭へ