わが町のあゆみ
笹野台いまむかし

5. 『三ツ境』と『笹野台』 つづき

(3) 「三ツ境」という地名の定着
  「ミツキョウ」と呼ぶ地名に密経三経三ツ境の字が当たられています。二俣川に古くからあった字名の密経三ツ経新田とは区別して考えるのがよさそうです。新田開発に人達が密経の人が関わったり、その人たちが新田の近くに移り住み「密経新田」という一つの部落を作ったと考えれば、字密経が二か所に分かれていることがうなずけます。そして、三経は新田の近くですが、たまたまそこが二俣川・川井・阿久和三村の村境の地点だったので、密経より三ツ経三ツ境を使うようになったのではないでしょうか。
 また、この時代は地名や人名の表記も同音の漢字や異字体を適当に使ったりしていることが少なくなかった。二俣川も二又川と書いたりします。その見方からすれば密経三ツ経三ツ境は特に区別せずに使われていたとも考えられます。
 密経三経は二俣川村の字名ですが、三ツ境は字名ではなく三つの村の境の地点の呼名だったのではないでしょうか。それが、三ツ境という字に統一されてきたのには、どんな経過があったのでしょうか。

 明治28年に川井分の鈴木見伊蔵と阿久和分の大岡喜十郎が世話人になって『三ツ境消防組』を作りました。これは、瀬谷村二つ橋、二俣川春の木、下川井三島社、中川村谷戸阿久和の範囲の消防活動を三ツ境で境を接する各村で協力し合って行おうとしたものです。国境・村境の各村の家数が少なかったのでこのような組織を作ったのです。その時に組織を『三ツ境消防組』とし、消防ポンプに『三ツ境』と書きました。これが『三ツ境』としう文字が公の場に現れたはじめといわれています。

 その後、神中鉄道(相模鉄道)が、この地に駅を作り、駅名を『三ツ境』としたので、この地名がだんだん人に知られるようになってきたのです。
 駅を拠点とした新しい町に『三ツ境』という町名がつけられ、瀬谷区の町として広く知られるようになりました。近くではありますが、三ツ経新田とは違った場所が新しい『三ツ境』になったのです。

(4) 昭和30年頃の三ツ境
① 住宅地の開発と人口の増加
 昭和24年頃の三ツ境駅の周辺は、鬱蒼たる森とゆるやかな斜面の畑が少々ある程度の淋しい所で、駅のまわりに家がわずかにあるだけでした。相鉄沿いの自動車が通れる4メートル幅の道のほかは道路らしい道路もなく、山間の村という感じでした。
 昭和20年以降、戦災者や外地からの引揚者や疎開先から戻ってきた者などで横浜市の人口も急増して、住宅不足も著しい状態でした。市の中心部の復興も、都市機能の復活・拡大に重点が置かれ、住宅建設は郊外に行われるようになりました。
 横浜市では分譲住宅や賃貸住宅の建設に力を入れ、瀬谷区での大規模な開発は三ツ境がその始まりでした。昭和25年から30年にかけて市営住宅約600戸、分譲住宅地350をはじめ、横浜ドック(三菱重工業横浜造船所)の住宅、昭和電工の社宅などつぎつぎと建設されました。昭和30年には、2000世帯を越える町ができあがっていました。
  昭和27年から30年までの三ツ境駅の年間乗降客数を見ると右の表のようです。4年間に利用者数は2倍以上になっています。この町の居住者が急速に増えていることを物語っています。
 この頃に私鉄の沿線では、各所で住宅地の開発が計画されていましたが、多くは駅から離れた丘や森を開きました。農地法によって農地の転用は制限されていたことによるのでしょうが、この三ツ境は、駅の近くが農地ではなく山林原野が多かったので開発しやすかったのでしょう。
 笹野台の開発も同じように、駅近く山林が多かったのですが、南側の三ツ境より開発の着手が遅かったのは、地形の違いが影響していたのでしょう。三ツ境は比較的平坦な所が多いし、土地の傾斜もゆるやかですが、笹野台は谷があって勾配のきつい斜面が多いので造成工事に手間がかかるなどの理由があったのではと考えられます。

② 三ツ境商店街
 商店街の建設も進められ、昭和30年頃には駅前商店街の町並みもほぼ整ってきていました。商店街には、食料品店(野菜・食肉)、蕎麦屋、酒屋、おもちゃ屋、理容店、ガラス屋、電器屋、和菓子屋、洋品店、菓子屋、クリーニング店、薬局、書店、お茶屋など日用品はここで間に合うほどの商店街となりました。公衆浴場もあったし、医院、歯科医院もできていました。珍しかったのは商店街を下った所に『三ツ境すばる座』という映画館までありました。三ツ境病院もできていました。

 町の発展につれて、公共施設もできてきました。昭和31年には、三ツ境小学校が開校。近くに学校がなかったので、その頃越してきた小学生の中には三ツ境小学校に通った人もありました。同じ年に相鉄バス三ツ境~南瀬谷、翌32年三ツ境~細谷戸の路線が開通。33年には三ツ境郵便局が開局、34年には駅前に巡査派出所(交番)が設置されました。阿久和東にあった蚕の神様『白姫神社』を現在の場所に移してきたのも昭和32年でした。
 笹野台に町が作られ始めた頃の三ツ境の町はすでにこのように開けていましたので、その頃笹野台に越してきた人にとっては、日常の買い物の多くは三ツ境商店街に頼るようでした。笹野台の商店街ができはじめたのはそれから十年後ぐらい後のことです。その頃、踏切を越えて三ツ境商店街へ買い物に行ったことを懐かしく思う方もあるでしょう。
 三ツ境の町はその後も発展を続け、富士見通りにも商店が並ぶようになったり、スーパー・マーケット(最初は忠実屋、今はダイエーに変わっている)が作られたり、銀行の支店を開かれたり、町としての体裁もますます整ってきました。
 昭和37年5月、阿久和町鎌取などと呼ばれていたこの地域一帯の新しい町の名を『三ツ境』とすることになりました。44年10月に瀬谷区が戸塚から分離したので『瀬谷区三ツ境』となり、瀬谷区役所や瀬谷警察署、瀬谷消防署なども駅から近い二つ橋に作られて、三ツ境は瀬谷区の中心になりました。
 小さかった田舎の駅舎も、利用者の増加に応じて昭和33年に改築されました。それまで単線だった相模鉄道も複線化されました。やがて跨線橋も作られて、駅の南北の往来も楽になりました。今は駅ビル『相鉄ライフ』ができて、そこで買い物する人が増えました。以前に比べれば笹野台と三ツ境商店街との交流も少なくなりましたが、やはり笹野台三ツ境は駅を中心にまとまった町とし支え合って発展しています。

(次回は、昭和30年代の笹野台のくらしをとりあげたいと思います。)

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