わが町のあゆみ
笹野台いまむかし

4. 下川井のむかし・『笹野台』とその周辺

 笹野台という地名は、昔の下川井町の字の名をもとにして生まれたと、前に書きましたが、ここでは、その下川井の昔はどんな様子だったのでしょうか。ここでは、下川井の昔の様子にふれてみたいと思います。

(1) 地名の変遷
 地名の変遷について表にまとめてみました。


 江戸時代の初期には川井村といっていたようですが、寛永(1624~1644)の頃に上川井村と下川井村に別れ、その後明治22年(1899)に、市町村制施行の際、上川井村、今宿村、上白根村、下白根村を併せて『都岡村』という大きな村になりました。

 昭和14年に横浜市編入された時、都岡村大字下川井は、保土ヶ谷区下川井町となりました。下川井町から笹野台が分離したのは昭和39年、金が谷、矢指町が分離したのは昭和40年です。

 その後、昭和42年に保土ヶ谷区から分区して旭区が生まれましたので、旭区笹野台、旭区金が谷、旭区矢指町となりました。更に平成3年に地番改正が行われ、笹野台には一丁目から四丁目、金が谷には一丁目から二丁目ができました。一、二丁目に入らなかった金が谷はそのまま「金が谷」として、下川井連合自治会の区域にはいっています。

(2) 下川井のむかしのようす
①古い資料に見られる下川井
『日本歴史地理体系 神奈川の地名』(1984年平凡社発行)などによると、下川井村について次のようなことが書かれています。

 「下川井村は現在の旭区金が谷、笹野台、矢指町、下川井町、上川井町、川井本町、川井宿町をまとめた村名であった。
 室町時代は都筑郡河井郷と呼ばれ、江戸時代の初期には川井村と記録されていたが、正保(1644~1648)から元禄(1688~1704)の間に上川井村・坂倉新田とともに村が分かれたようである。
 川井村は田が少なく畑が多かったこと、八王子街道沿いなので一時は鷹匠の伝馬(鷹がりの使役)をかせられていたこともあったとか。また、川井の名については、川合、河合と同じで川の合流する所を、意味している。帷子(かたびら)川とその支流が合流する川井宿付近のことを指す地点の名がもとではないかといわれている。また新編武蔵国風土記稿*1には『昔多摩郡川井村のものがこの土地を開いたのでこの名がある』という伝聞を記している。上川井、下川井の上下は村を流れる帷子川の上流下流のことである。
 さて江戸時代幕末までの下川井村は、幕府の直轄領と旗本倉林氏の知行地であった。元禄8年には畑28町3反余、高53石余の下川井新田の検地を受けた。」矢倉沢往還*2長津田宿の定助郷*3村であったが、宝暦2年(1752)から保土ヶ谷宿の加助郷村に編入された(文政4年「村明細帳」桜井文書)。
 文久2年(1862)村高人別書上帳(同文書)では村高221石のうち100石を保土ヶ谷宿加助郷、残り121石を長津田宿定助郷として勤めている。
 天保11年(1840)の保土ヶ谷宿組合村高書上帳(緑区吉浜文書)では家数45。文政4年(1821)の村明細帳では、商売人 2、大工 1。女は木綿織り。最寄りの市場は神奈川へ3里、原町田村へ2里半、文久2年(1862)の村高人別書上帳では、家数63、うち2軒は潰家(つぶれや)、人数 363、うち村役人 5、出家 5、出稼 12、他所への養子 7などである。馬は 7。明治元年(1868)の組合村高其他書上帳(吉浜文書)では、家数 61、男 172、女 194。と
 曹洞宗福泉寺は清隆山と号し、明治6年から24年まで本堂の一部が川井学舎として使用された。中原道脇に御殿松があり、風土記稿では旧跡御殿場として、徳川家康がそこで休息し、茶をたてたと伝えるが、現存しない。鎮守の三嶋神社がある。」

 明治に入っての下川井村は、田15町歩、畑33町歩と畑作がおもな村でした。八王子街道と中原海道が交わる所だったので、農業の他に荒物屋、旅籠(はたご、宿屋)、質屋などの商売もする家もありました。衣類は呉服屋ではなく「太物屋」といって、木綿や麻の織物を商う店があったようです。

(注)*1 「新編武蔵国風土記稿」
 徳川幕府が編んだ武蔵地誌。町村名の起源・沿革・地形・土質・道路・田畑の様子・支配・寺社など詳しく記している。
(注)*2 「矢倉沢往還」
 江戸時代五街道の補助の道として定められた脇往還の一つ。東海道と甲州街道の中間を通り武蔵を結んだ。民間信仰の厚い大山参りも通るので大山街道ともよばれた。今の国道246号線の道筋である。
(注)*3 「定助郷」(じょうすけごう)
 江戸時代、宿駅常備の人足か不足する場合に、指定されて応援の人馬を負担する近隣の郷村またはその課役を助郷(すけごう)といった。常任のものを定助郷、臨時のものを代助郷、加助郷という。

②都岡村となって
 明治22年(1899)に近隣の村々と合併して「都岡村」という大きな村となりました。当時全国的に明治政府の方針で村の合併が行われたのです。


 新しい村名となった「都岡」とは都筑郡の高台に位置することから名づけられたといわれています。一説には、都筑村としたかったが、都田村(現在の川和町)も都筑村という名を予定していたので、都岡としたといわれています。そして下川井村は都岡村大字下川井となりました。

 村名をつけるのに都筑にこだわったのは、最初に郡役所が置かれたのが下川井であったし、二つの街道の交わる交通の要所であったりして、ここが都筑郡の中心だという感覚があったのではないでしょうか。郡役所は後に川和に移りましたが、都岡村の村役場は下川井に存続していました。

 現在の都岡町は昭和14年横浜市に編入の際、川井町、下川井町、今宿町の一部から新たに作られた町です。このあたりが都岡村の中心だったので、その都岡という名前を残したいという願いがあったのでしょう。
(郡役所は現在の都岡町36番地付近。都岡村役場は都岡町72番地にあった。)

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