わが町のあゆみ
笹野台いまむかし

4. 下川井のむかし・『笹野台』とその周辺 つづき

③大野・天野・笹山は村境・国境
 下川井全体についての記録はいくつかありますが、残念ながらこの村の字についての記録はあまり見当たりません。新編武蔵風土記稿に「下川井村の小字金が谷、南の方を云う」とか「下川井村の小字矢指、西南の方を云う」は見られますが、大野・天野・笹山という地名は出てきません。下川井の街道筋近くには福泉寺、三嶋神社があり、民家は都岡の辻あたりにまとまってありましたが、村の辺境だった大野・天野・笹山には寺も神社もないし、特別の史跡や名所もなくて、道沿いにわずかな数の民家があるだけでした。昭和20年代まではまだ同様の状況でした。


 笹野台の地域(大野・天野・笹山)は武蔵国と相模国の境です。地図を見ると、二つの谷間、三つの丘からなる北向きの土地です。周辺も起伏が多く、谷戸と台地の複雑な地形は今も殆ど変っていません。

 別掲の『明治初期の笹野台周辺の土地利用』を見ると、谷合には狭い谷田(やとだ)があり、台地の平らな部分や緩い斜面は畑として耕作されていましたが、傾斜地なので山林か原野となっている部分が多いことがわかります。山林は杉や松のほか雑木林が多かったようです。楢(なら)や椚(くぬぎ)が植えられていました。楢や椚は木炭や薪の材料となるので炭焼きをする所もあったのではないでしょうか。

 何かの文書で「薪刈と篠笹を刈って焼灰を作り・・・」というのを見たことがありますが、この地域もそんな様子があったかと思われます。自然の湧水に頼る谷田(やとだ)は湿田で、収量は少なかったのではないでしょうか。

 旭区郷土史に「旭区は標高が100mに満たない起伏のある多摩丘陵が主部を占め、台地間には谷あいから湧水する清水を利用して谷田が開けている」「江戸時代の旭区の村々は、丘陵の斜面と台地に開かれた畑と、谷合から広がる段々田と萱・雑木が生い繁る広い山野であった」とありますが、この笹野台周辺もその例にもれません。

 開発が始まる昭和30年頃までは、まだ、このような土地の様子が続いていたのです。

 笹野台西側の稜線を通る道は武相国境道で、向こう側は相模の国、阿久和・二つ橋に接しています。阿久和も二つ橋の側も、比較的傾斜が緩やかな土地で、畑も作られ桑も多く植えられていたようです。

 こちらの武蔵側のごつごつした山稜の起伏と相模側のなだらかな土地という対照的な地形は、農業の様子は勿論ですが、昭和20年代の開発にもずいぶん影響していたように思われます。

④民家と人や物の流れ
 笹野台の辺りは、下川井の村の中心から離れた村境の小さな集落でした。開発以前の様子を地図で見ると、今の三ツ境駅の北側と東笹野台の厚木街道沿いに数える程の民家があるだけです。あとは金が谷道の下の方に集落があります。近くでは陸橋の先の三ツ境新田に関わりのありそうな場所に何軒か点在しているくらいで、今の三ツ境の町の区域にも民家はあまりなかったようです。古くからまとまった集落があったのは、春の木(希望が丘)の長楽寺周辺です。

 開発の始まった頃は、まだ茅葺き屋根の民家も残っていました。尾根道沿いの民家は、屋敷の風よけのため、その周辺に欅(けやき)などを巡らせていました。天に広がる欅の枝先の形はとても印象に残っています。
欅に囲まれた茅葺き屋根民家→

 昔の道は台地の稜線を利用したり川の流れに沿って作られたりしています。稜線を通る尾根道は周辺の情景を見て方向を確かめたり、目的地を見とおしたりするのに便利です。谷間の流れに沿って行けば、容易に人里に辿り着けるし、比較的平坦な道を作れるという利点があります。笹野台・三ツ境の周辺の道もだいたい、そのような道になっています。

 この地域には、古くから武相国境道、神奈川道(厚木街道)、中原街道などがあります。笹野台はこれら尾根道に囲まれた地域てもあります。今の金が谷道は、下川井の中心で八王子街道と交わる都岡の辻の方へ行くための道で、谷間の流れに沿っています。

 矢指、金が谷は谷田を通って下川井の中心へ行くのが自然の流れとかと思われますが、今の三ツ境駅の辺りの人は、当時の家の分布や村の中心への往復の距離が長かったり、途中の道が険しかったりして、日常生活では下川井の中心部へ行くよりも、神奈川道を利用して、瀬谷や二俣川方面と交流する方が都合よかったのではないだろうか。国は違い、村は異なっても国境・村境の家数の少ない部落の人達同士はお互いに助け合い、その交流が「三ツ境」という地域の特殊性を生み出して来たのではないでしょうか。

 次回は笹野台と関係の深い三ツ境のことを取りあげたいと思います。

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