わが町のあゆみ
笹野台いまむかし

8. 旭区笹野台となる

(1) 旭区か瀬谷区か
 戦後の横浜市は急速な人口増になりました。それに伴っての行政区も再編成を迫られ、昭和44年に南区から港南区を、港北区から緑区を、戸塚区から瀬谷区を、そして保土ヶ谷区からは旭区を分離しました。保土ヶ谷区の西部は相模鉄道の沿線に新しい住宅地がいくつも開発されていました。
 旭区の地域には、古くからの町として、市沢町、今宿町、小高町、上川井町、上白根町、川島町、三反田町、下川井町、白根町などがありましたが、分区の前には、それから分かれて、いくつもの新しい町が生まれていました。
 昭和36年に、今川町・四季美台・善部町・中希望が丘・東希望が丘。昭和37年に大池町・本宿町・本村町・南本宿町。昭和38年に柏町・中尾町。そして昭和39年に笹野台・さちが丘・中尾町・万騎が原・二俣川1丁目・同2丁目。昭和40年に金が谷・川井本町・川井宿町・都岡町・矢指町。昭和43年に鶴ヶ峰、昭和44年に西川島町などです。なお、旭区になってからは、桐が作・鶴ヶ峰本町・今宿西町・今宿東町・今宿南町と若葉台(1丁目~4丁目)ができました。
 旭区ができたのは昭和44年10月のことです。当時の人口は約14万人でしたが、その10年後には21万人になっていました。ここ笹野台も旭区笹野台としての新しい歩みが始まりました。
 ところで、この分区に際しては、笹野台は瀬谷区に入れたらどうかという話があって、議論の種になったことがありました。当時の計画で、区の適正規模という観点から将来を見通したこと、区役所その他の行政機関の所在と住民の利便性という観点からもそのような意見が出てきたものと思われます。地域の主だった人の意見も、瀬谷区賛成と旭区賛成の両論があったようです。役所側の説明不備もあったらしく、かなり議論が続いたようです。当時住民の意向調査を行ったところ、結果の数次だけしか分かりませんが下表のような結果が得られたということです。
 調査の中で「条件付き」ということが、現時点ではどんな内容かわかりませんが、多くは学区の問題がからんでいたようです。小学校はともかく、中学校・高等学校などの進学先の心配が条件としてあげられていたと聞き及んでいます。 

 数字を見ると、瀬谷区に入ってもという意向はかなりあったようですし、境友は全域にくらべると少々意向が異なっていたようですが、その後、どういう経緯で、最終的に旭区ということで落ち着いたかは定かではありません。「条件付き」が多いということで、瀬谷区側に編入する問題は住民の納得が得られないと判断したのでしょうか。また、昔から瀬谷は相模国鎌倉郡、こちらは武蔵国都筑郡という歴史的背景も多少影響したのかもしれません。
 ただ、瀬谷区だったら区役所が近くてよかったのにという声は今でもたまに聞こえてきますが・・・。しかし、今では分区から半世紀近くも経ち、行政サービスも充実してきたので、分区当時のこんな話もほんとうに昔話になってしまいました。
 この昭和40年代は日本全体に活気が満ちていた時期ですが、行政の活動も活発になり、この地域でも、さまざまな新しい施設が作られて、町の様子も大きく変わり始めていました。この近所で見るだけでも次のような動きがありました。
 昭和42年 上川井に「保土ヶ谷カントリー・クラブ(ゴルフ場)」が移転してくる。
        金が谷に「くるみ学園」が作られる。
 昭和44年 保土ヶ谷区から『旭区』が分区する。
        「東名高速道路」が開通する。金が谷~二俣川にバスが開通する。
 昭和45年 『笹野台小学校』ができる。
 昭和46年 「旭区総合庁舎」が鶴ヶ峰に完成する。
 昭和47年 金が谷~三ツ境にバスが開通する。
        「旭警察署」が開署、『笹野台交番』が作られる。
 昭和48年 「環境事業局旭工場」と、それに関連して「福寿荘」「旭プール」ができる。
 昭和49年 「保土ヶ谷バイパス」が開通する。相鉄横浜海老名間の複線化が完成する。
        「旭土木事務所」ができる。

(2) どっちの学校へ行ったらいいの
 昭和30~40年代、横浜市では急激な児童数の増加に伴う学校建設が大きな問題でした。特に行政区の境、学区の外れにあるこの地域ではこの問題は深刻でした。
 戦後の新学制が発足した頃、旭区では都岡中と二俣川中ができましたが、じきに統合されて鶴ヶ峰中学校となり、旭区で中学校はただ一校だけでした。万騎が原中学校ができたのは昭和36年、笹野台に越して来た人たちは万騎が原中学校まで通ったのです。昭和44年になって希望が丘中学校が開校し、それ以後、中学生はずっとしこへ通えるようになりましたが、困ったのは小学校です。
 笹野台の区域で境友自治会の辺りは、古くから都岡小学校飲む区域でした。もともと地元の人は都岡まで山道を通ったのですが、住宅が増え市街地から引越してきた子供にとっては、この道わ通学するのはとてもたいへんなことでした。といって近くに学校がありません。近い学校といえば、三ツ境小学校、瀬谷小学校、二俣川小学校でした。昭和31年には希望が丘小学校もまだ二俣川小学校の分校でした。それらの学校へ通うのには都岡小学校の校長から区外通学の承認を受けなければなりませんでした。
 その後、昭和32年に希望が丘小学校が独立して、そこへ通えるようになって一安心したのもつかの間、希望が丘小学校も児童数が増えて学区の子供も収容しきれなくなりました。昭和39年には、市教育委員会から、笹野台地区の児童は瀬谷区に新しくできた二つ橋小学校へ通ってほしいと強力な要請がありました。その時点ですでに兄姉が希望が丘小学校に通っていた場合は、いっしょに通わせることができましたが、この時点で長男長女が学齢に達した家族では、瀬谷区の二つ橋小学校に入学させた家庭もかなり多くありました。
 特に瀬谷区の境に接する境友自治会では、この土地にきて生まれた子供たちがちょうど学齢に達していたので、そのような例が多くありました。同じ幼稚園に通っていたとなり同士の子が、朝の登校の時に「ぼくは左だ、君は右だ」と別々の小学校に行くというのも何か割り切れないものがありました。
 子供会の行事の時も、学校が別れているので、学校やPTAの行事の都合が合わなくて計画や実施に何かと不都合も多いものでした。それでも、子供会の行事は、地域の世話人の努力で子供たちは仲良く参加していました。
 二つ橋小学校に通うには途中、中原街道を通ったり楽老アパートの西側の田圃の回りを大きく回らなければなりませんでした。当時はまだ瀬谷区になっていなかったので戸塚土木事務所まで行ってお願いをし、田圃の途中に土を盛って児童が通るだけの通学路を作ってもらったりしたこともありました。また、中原街道の森の枝伐りや草取りをして通学しやすいようにみんな努力しました。
 希望が丘小学校に通う子は、電車通学したり、遠い道を歩いたりしました。昭和42年に東希望が丘小学校ができたので、そちらに移りましたが、やはり通学の道のりは長くて苦労でした。二つ橋小学校へ入学した子は卒業まで同じ学校で過ごしました。その頃の子供たちは、小学校では別れ別れになったけれど、中学に入ってまた幼馴染みと席を並べることになったりしたのでした。
 この地域の子供全部が笹野台が小学校に通えるようになったのは昭和40年代も終わる頃です。笹野台の人達は、自分の町の学校がほしいのと思いました。連合自治会長の常盤さんを中心に、市の関係機関などに学校建設を働きかけ、昭和44年9月に東希望が丘小学校笹野台分校が開設されました。笹野台小学校として独立開校したのは昭和45年4月でした。途中で新しい学校に移るという経験をしたのですが、自分の町の学校ができたことをみんなが喜びました。開校式の時の学校は、まだ鉄筋校舎の9教室とプレハブ校舎だけで、運動場の設備も何もできていない状態だしたが、子供たちも大人たちもみんなこの学校をりっぱに育てようという気持ちでした。その頃の様子については、笹野台小学校の社会科資料集『わたしたちのまち』に詳しく載っています。

(3) 連合自治会結成
 金が谷地区の町の骨格もこの頃にはできあがって、笹野台地区というまとまりがほぼ固まってきました。笹野台・金が谷という新しい町の誕生を受けて、地域の結束を強め活動を活発にしようという動きが高まってきました。
 昭和39年、6自治会で組織した笹野台地区連絡協議会は、昭和42年になって、新たに金が谷・岸本・の2自治会を加えて、8自治会で『笹野台地区連合自治会』を結成しました。この三年間にこの地域の住宅も急速に増加して、連合自治会に含まれる世帯数は約2,000となっていました。更に昭和46年には、富士見が丘自治会が加わりました。連合自治会長には、境友自治会の常盤豊次郎氏が就任し、昭和50年まで勤めました。
 今では、その後に結成された『山百合』『向日葵』『テラス・アルカサル』『南笹野台』『グランシティレディエント横浜三ツ境』の5自治会が加わり、連合自治会は現在13自治会で構成されています。


 連合自治会が作られてから、いろいろな地域活動や組織が生まれました。保土ヶ谷区だった時からの組織も、旭区となって改編されたりしました。昭和44年には青少年指導委員制度・家庭防災員制度、その年には消防団も旭区消防団第四分団第六班の受持ち区域となり、昭和45年には旭区老人クラブ笹野台支部が発足したりということがありました。
 連合自治会の行事としては、昭和43年に第一回体育祭を荏原グランド(現在の北公園)で開催しました。その後暫くして夏祭り盆踊り大会なども連合自治会主催で行うようになりました。

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