わが町のあゆみ
笹野台いまむかし

10. 笹野台および周辺の史跡など
 昔の笹野台の地域は、住む人も少ない辺地であり、ほとんどが山林と畑地ばかりだったので、これといった史跡や旧跡は見当たらない。しかし周辺を見ると、昔から知られている史跡もいくつかあるので、この地域を理解するにはこれらを知っておくことも大事ではないでしょうか。

(1) 楽老峰
   野境道路の西、相鉄の道路の北に位置する二つ橋楽老ハイツのある所は、昔から楽老峰あるいは鎌倉台と呼ばれていました。
 徳川家康が中原街道を通った時に、楽老峰の丘に上って見物したのが、この場所であろうといわれています。地元の伝承です。残念ながらこれについての文献資料は確認されていないようです。しかし当時の時勢から考えるとこのような事柄があったとしても不自然ではありません。
 家康は、よく鷹狩りを行いました。この楽老峰でも、単なる物見や休息だけを目的にしたばかりでなく、鷹狩をここで楽しんだのでしょう。瀬谷には鷹見塚というものがあるし、中原街道沿いには鷹狩に関わる歴史もあることは前にも触れた通りです。また、楽老峰のすぐ西側には、かつて鎌倉道とよばれた古道があり古戦場「世谷の原」も近いので、ここから眺めて昔を偲んだりしたのかもしれません。鎌倉台という呼び方は、その鎌倉道に関わって付けられたと思われます。
 楽老峰は団地の建設により今は低く崩されましたが、以前はもっと高くて十分物見のできる台地であったようです。楽老南公園の辺りの小高い所から眺めると、なだらかな相模野が一望のものに眺められます。今は建物などが増えて視界が遮られていますが、かつては海老名の森の先まで見られたといいます。天気がよい時は富士や丹波の山々の美しい姿が見られます。
 ところで楽老峰という地名は何に由来するのでしょうか。かつて三ツ境商店街に勇月堂という和菓子屋があり、そこで三ツ境の銘菓として『楽老最中』を売っていました。それに楽老峰の由来が書かれていました。その文章は覚えていませんが、「この土地の住人は老人を大切にして・・・」と言う意味のことが書かれていたことだけは心に残っています。
 たまたま大正元年(1912)に作成された鎌倉郡中川村誌を読むことがありました。中川村とは明治22年から昭和14年まで阿久和村、岡津村などが合併していた頃の名称です。その阿久和の頃に、「虫送り祭り 昔は村人が集まって夏の一日を吉日として、酒を飲んだり大きな声で歌ったりして勇ましい鬨(とき)の声をあげて、隣村との境の上に押し寄せて、害虫を駆除し、稲の豊作を祈った」「昔から阿久和では、貴賤や貧富を問わずに年齢が80歳を越えた老人には、必ず領主から玄米1俵づつを毎年支給されたといういわゆる長老を尊敬する美徳からでたものであろう。」という記述がありました。村境・敬老の精神など、楽老峰ということばにつながるものがあるように思われます。また、村境の虫送り・・・ということから、阿久和・川井の国境である楽老峰は農民の生活に結び付いた場所であったのでしょうか。近郷近在の農民も農作業の合間にここで英気を養ったのでしょうか。「楽老」は老人を楽しませただけではなく「楽農」の場であったかも知れません。
 平成元年に瀬谷区の歴史を知る会が作った『わらべうた・童謡・唱歌歌詞集』の表紙に、瀬谷のある郷土史家が描いた楽老峰の絵が載っています。説明に「徳川家康公催鷹狩世谷の原霜月候御休息相武境鎌倉台楽農人献茶」とあります。往時の情景をわかりやすく描いたものですね。


    歌集の表紙に書かれた楽老峰        楽老南公園から(平成26年)

(2) 川井御殿
 笹野台から下川合インターチェンジを越すと、中原街道をはさんで三島神社の向かい側に小高い丘があります。慶長5年江戸を出発してこの街道を中原へ向かった徳川家康は、小杉御殿を出たあとここで休憩しました。ここには中原街道の四御殿の一つである川井御殿がありました。


 川井御殿は御殿といっても立派な建物ではなかったようです。鷹狩りの時にも使ったかもしれませんが、丘の上からは四方を見渡せる場所なので、街道筋の護りとしての施設だったのでしょう。
 御殿があったので、この辺一帯は下川井町字御殿丸と呼ばれていました。帷子川にかかる橋は「御殿橋」と名付けられています。この丘の麓には「ごてんした」という屋号の家があります。
 新編武蔵国風土記稿に「旧跡御殿場、下川井の内、東中原道の傍にあり、むかし東照宮江戸より相州高座郡中原御殿に渡御ありしとき、しばしが程此の所におわしましお茶を立てられしと云、古松一株あり、御殿松と呼ぶ、囲み八尺ばかり埒(らち)をゆひ廻せり」と記されていますが、御殿松は今は残っていません。

(3) 三嶋神社
 笹野台地区には神社はありません。氏神といえば下川井町の三嶋神社である。かつて笹野台も金が谷も下川井の内であったので、今でもそのまま氏子の区域になっています。
 三嶋神社の祭神は、大山祇命(おおやまつみのみこと)。創建は江戸時代寛永年間(1624~1643)と伝えられています。祭神大山祇命(三嶋大明神)は伊豆三嶋大社より勧請され、農業・林業の神として武門の守護神として信仰されてきたそうです。
 現在の社殿は昭和12年に建てられ、神楽殿は最近建て替えられました。祭りは毎年九月に行われます。普段は立木に囲まれた静かなたたずまいを見せています。境内にはカヤキやケヤキの古木があります。

(4) 岩船地蔵尊・一里塚跡
 ほうゆう病院の裏手の旧中原街道の脇(矢指町1851)に「岩船地蔵尊」があります。この近辺には数少ない石仏で、「イボ取り地蔵」ともいわれていました。今も地元の人によって地蔵様もお堂もよく保全されています。
 「享保九天庚辰十一月十七日 世主吉祥院」「奉造立地蔵菩薩供養為二親」と刻まれています。岩船地蔵とは船に乗った地蔵様で、六道の苦海に舟で棹さして溺れる人達を救いあげ、願いをかなえてくれるといわれています。
 また吉祥院は、明治の始めまで現在の川井橋の近くにあった尼寺吉祥寺のことではないでしょうか。川井に吉祥山という字名がありました。ゴルフ場の北側辺りです。
 岩船地蔵尊の近くに一里塚がありました。一里塚は街道を旅する人の目印に一里(約4km)ごとに土を盛り塚を作りその上に榎や松を植えたものです。今は案内板にその位置を知ることができるだけですが、往時は中原街道の中では急な坂道の上だったので、ここは旅人のよい休憩場所だったのではないでしょうか。今は、ランドマークタワーが展望できるよい休憩場所が作られています。

(5) 文殊庵跡
 地元の人からもほとんど忘れられているし、私も現場を実際に見ていませんが、金が谷634に文殊庵というお寺がありました。「スンマ堂」と呼ばれていたそうですが、今では、農家の裏山にひっそりと二つの石造物があるだけだそうです。享保5年(1720)建立の地蔵菩薩立像と万延元年(1860)文殊庵澄江慈舟尼首座と記された庵主の墓だと聞いています。
 新編武蔵国風土記稿には「文殊庵 年貢地二畝、村内南の方にあり、堂は五間四方巽向きなり、本尊弥陀木の立像、長さ二尺、福泉寺の侍」と記されています。
 下川井インター近くに、享保(1716~1735)の年号がはいっている庚申塔と「正徳2年(1712)六部高顕所」と記された石造物があります。道路建設工事の時に矢指町からここに移されたものです。文殊庵を開いた層だといいます。

(6) 矢指谷遺跡

 『よこはまの遺跡-2-泉区・旭区・瀬谷区』というパンフレットに『矢指谷遺跡』として紹介されています。聖マリアンナ医科大学横浜西部病院の建設に先だって、昭和59、60年に行われた発掘調査で、ナイフ型の石器・磨石(すりいし)・敲石(たたきいし)などの石器が発掘されました。これが約20,000年前のものと言われています。出土品の一部は横浜歴史博物館で展示されています。病院の敷地内に解説板が設置されています。 そのほかに、縄文時代の住居跡や、獣を捕らえるために落とし穴の跡も見つかったりしました。古くから人々が生活をしていた場所であったことがうかがえます。

 金が谷にも下川井インターに近い所に小規模な遺跡『金が谷台遺跡』があったようです。この辺りには古くから人が住んでいたことがうかがえます。笹野台小学校建設工事でも、土器の破片が見つかったと聞いています。特別の遺跡はなかったようです。

(7) 二つ橋
 二つ橋町は瀬谷区ですが野境道路をはさんで笹野台に接しています。この町の名は、中原街道にかかる二つの橋に由来すると言われています。
 中原街道を瀬谷に向かうと二つ橋の交差点に出ます。今はそのそばに、二つ橋の由来を示す歌碑と道標が立っていますが、ここで交わる中原街道と神奈川道(現在は瀬谷柏尾線)のそれぞれにかかる橋がありました。和泉川(清水川)にかかるこの二つの橋が並ぶようにあったので、二つ橋と呼んだのです。
 歌碑には前記の家康の歌と伝えられる「しみじみと清き流れの清水川 かけわたしたる二つ橋かな」のほかに、「相模野の流れもわかぬ川水の かけならべたる二つ橋かな(道光親王)」という歌が記されています。


     二つ橋の由来                 二つ橋の歌碑と道標

 この場所は、小杉・左江戸・用田とともに中原街道の宿駅で、江戸からの公用の荷物をはじめ商人の荷物などの継送りを行っていました。当時、公用の荷物の継送りの賃銭は、人足1人につき22文、本馬1匹44文、軽尻馬(軽い荷物と人、あるいは軽い荷物を積む馬)は30文と定められ、商人の荷物は相対(定め賃銭の2倍)だったといいます。古地図を見てもこの辺りは人家が多く、このあたりの中心になっていました。

(8) 鎌取池
 三ツ境の商店街を下りきった右側という池がありました。昭和25年頃初めて三ツ境の地を訪れた時には、木立ちに囲まれた池があったのを見ています。昭和30年代には釣り堀となって名残を止めていました。その後埋め立てられ、今ではそこに池があったことを知る人も少なをくなりました。資料から鎌取池の昔をたずねてみましょう。
 『旭区郷土史』(旭区郷土史刊行委員会編、昭和55年発行より)によると、笹野台には「カマトリ」という屋号を持つ家があります。明治の始め、ここのお爺さんが畑から帰る途中、この池のあたりで鎌を取られてしまったので、この屋号になったと記されています。
 『瀬谷区の歴史 生活資料編1には』(瀬谷区の歴史を知る会編集 昭和51年発行)には次のように書かれています。
「三ツ境商店街付近は開発以前は森林が鬱蒼として昼尚暗しの処であった。三段につらなる溜池があり鎌取といわれた。」
 天正元年2月に作られた『鎌倉郡中川村郷土誌』の「阿久和村関係」を見ると次のような記述があり、昔はかなり大きな池であったことがわかります。
「鎌取池 阿久和川ヲ溯ルコト数十町、二俣川ト境スル所ニ鎌取池アリ。東西23間(42m)南北22町40間(290m)面積約5段4畝13歩(5800平方メートル)。往時ハ池水湛々トシテ漲リ、水面青ク緑樹邊周ニ鬱々タリシガ、近時ハ水浅ク唯蘆蓬ノ點々タルノミ。口碑伝日『往時或人昧爽(明け方)出デテ池ノホトリニ草刈ル。偶々何者カ現レ其鎌ヲ奪フ。ヨッテ此ノ名アリト。』惟フニ倒レタル老松ノ池邊ニ幡々タルヲ見テ寒膽蒼皇(肝を冷やす)逐ニ鎌ノ所在ヲ失ヒシモノナラン」
また、『瀬谷の民話(平成6年 瀬谷区役所)』には次のような伝説として記されています。

鎌取池(民話)
 むかし、阿久和川(あくわがわ)の源(みなもと)、三ツ境(みつきょう)の奥深い森の中に鎌取池という大きな池がありました。ある時、村の若者が池の周(まわ)りにおい茂った草を刈りにやってきました。働き者の若者は、時間のたつのも忘れ、せっせと草を刈っておりました。昼どきがきてやれ一休みと腰をおろしているうちに、ここちよい眠りにさそわれて、つい、いねむりを始めました。
 しばらくして若者がふと人の気配(けはい)に目をさますと、この世のものとは思えないような美しい娘が池のほとりに佇(たたず)んでいました。娘は悲しそうなようすで「私はこのあたりに住む者です。あなたはそのように熱心に草を刈ってくださいますが草を刈られては私たちが困ります。この池の周りの草がなくなると私たちの住むところがなくなってしまいます。お願いでございます。今あなたさまがお使いになっているその鎌(かま)をしばらく私にあずからせてください。どうぞ、お願いいたします。」と目になみだをうかべながら訴えるのでした。 
 若者は夢を見るようなここちで、いわれるままに使っていた鎌(かま)を、その娘に差し出しました。すると、娘は鎌をだいじそうに胸にだいたと思うと若者の目の前から、すうっと、かき消すように見えなくなってしまいました。若者がはっとしてあたりを見廻(みまわ)すと、そこには一筋の水のあとと、きらりと光るうろこが残っているだけでした。若者は娘が大蛇(だいじゃ)の化身(けしん)であったのに気がつきました。
 若者は村に帰ってこの話をしました。 すると、人々は「そういえば、おれもあの池で鎌を取られた。」と口々にいうのでした。それからというもの、この村の人々はこの池のことを鎌取池と呼ぶようになったということです。今はもう遠い昔のこと、この池も埋められて名が残っているだけです。

(余談)中原御殿
 中原街道は江戸と平塚の中原御殿を結ぶ道であることは前に記しました。平塚には今でも「中原」「御殿」という町名があるし「中原御殿」というバス停もあります。中原小学校に御殿があったことを示す石碑が立てられています。藤沢の名主であった福原高峯という人が江戸の画家長谷川雪堤の協力を得て作成した『相中留恩記』(天保10年 1839)に、この中原御殿のことが書かれています。この本は家康に関わる相模国内の遺跡を訪ねた時の記録です。一部を紹介します。
 「中原御殿跡は中原上宿にあり、今そこは林となり松の樹が茂っている。長さ80間(145m)横60間(110m)ぐらいで、四方にお堀が残っている。そもそもこの御殿は東照大神君(徳川家康)が、鷹狩りを行う時に仮の宿として設けた御殿で、雲雀野(ひばりの)の御殿とも呼ばれていた。この辺りは雲雀の名所だったからである。
この御殿をたびたび家康が来ていたことは、その頃の文書に記されている。
○文禄元年(1592)2月、朝鮮の役の時、江戸を出発して4日中原に宿泊、5日に小田原に向かった。
○慶長16年(1611)10月10日に来て、同月12日まで逗留した。(中略 9回の滞留が記されている)
○同年12月6日に到着。この辺りで鷹狩りを行い13日に小田原に向かった。
また、元和3年(1617)2月、が神柩(家康の棺柩)が、久能山から日光へ遷される時、この御殿に滞留した。翌21日武蔵の国府中へと運ばれていった。
 また、成瀬五佐衛門という人がこの地の代官をしていた頃、ここで酢を醸造し、江戸の御城へ献上した。その風味が格別なので、成瀬酢と呼び、家康はこれが殊の外お気に入りだった。御殿が取り払われた後、村民たちは家康の恩を忘れないようにと、この場所にお宮を建てたという。毎年4月17日にはお神酒やお供えをして、鎮守の山王の別当得願寺を招いて法会を行っている。」(本文は文語体だが、口語体に直しました)
 中原御殿は、鷹狩りのための宿泊所というのが表向きの理由ですが、街道筋でなく東海道平塚宿から少し奥に入ったこの場所に設けたこと、周囲に濠を巡らしたり林で周囲を囲んだことなどからみて、ここが要害の役を持っていたのではと考えられています。もちろん、鷹狩りが主な目的だったのでしょうが、そもそも鷹狩りの目的は軍事教練てあったし、当時の情勢からはここが政治上・軍事上の大切な施設であったことは間違いないと思います。

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