わが町のあゆみ
笹野台いまむかし

2. 笹野台という地名

  笹野台という町名の由来について、横浜市市民局発行(平成3年3月刊)の『横浜の町名』には次のように記されています。
「笹野台は昭和39年の町界町名地番整理施行にともない、下川井町の一部から新設された町。古くは下川井村といい、明治22年の市町村制施行の際、今宿村、上川井村、川井村、上白根村、下白根村と合併して都岡村大字下川井となる。昭和14年に横浜市に編入の際、都筑郡都岡村大字下川井から下川井町となる。町名は字(あざ)名『笹山』『天野』の野をとって名づけた。」

  この説明では「大野」という字(あざ)名が記されていませんが、笹野台小学校が作成した郷土学習資料『わたしたちのまち…社会科・生活科学習のために』(平成12年3月刊)には、
「笹野台は町名変更までは、字(あざ)天野、字(あざ)笹山、字(あざ)大野と呼ばれていました。地名変更にあたり、笹山の笹、大野・天野の野、そして土地が台地にあるために笹野台とよぶことにしました。」

と町名の由来について地域の人の考えや町名制定の経過がきちんと記されています。

  字名の「天野」は高い所にある野という意味で、現在の笹野台1丁目(中央、楽老峰自治会)の辺り、「大野」は広い野を表し、笹野台2丁目、3丁目(境友、向日葵、露木が丘、テラス自治会)の辺りです。「笹山」は笹が生えている山ということで、笹野台4丁目(東笹野台、南笹野台、富士見が丘、山百合自治会)の辺りです。ただ、笹山については、古くはササがサシ・サスと同じで焼畑を意味する地名だともいい、この説に従えば笹山とは焼畑耕作をする山ということになります。笹野台小学校の土地造成を行った時、土器が掘り出されたと聞いていますが、ここは古くから人が住んで農耕を行っていた場所だったのかもしれません。昔の地図で土地利用の様子をみると、笹野台は、杉や楢(なら)、椚(くぬぎ)など雑木林が多かったようですが、笹山のあたりに畑が作られていた様子がうかがえます。

  旧字名を表しているものは、ほとんど残っていないようですが、2丁目の境友自治会の北よりにある小公園に「笹野台大野公園」という表示があります。多分、この地に古くから住んでいた人が、昔の懐かしい地名をれないように残しておきたいという希望があったのでしょう。

  金が谷(かねがや)については、上記の横浜市市民局発行『横浜の町名』に次のように記されています。
「金が谷 昭和40年の町界町名地番整理施行にともない下川井町の一部から新設した町。古くは都筑郡下川井村といい、昭和14年に横浜市へ編入の際、都筑郡都岡村大字から下川井町となる。町名は字名から名付けた。新編武蔵国風土記稿の「下川井村の小字金ヶ谷、南の方をいう」との記録がある。」

  古い地図をみると「カネガヤ」ではなく「カネガヤト」とふりがなをしてあります。「カネ」とは曲がった地形を表す言葉なので、金が谷とは「曲がった谷」を意味するといいます。このあたりの地形が、帷子(かたびら)川に対して直角に近い方向の谷であるということでしょうか。「カナガヤ」と呼んでいる人も多いようですが、本来は「カネガヤ」です。

 ごく一部ですが、笹野台地区に矢指町(やさしちょう)(境友自治会内)もはいっています。

  矢指町も、昭和40年の町界町名地番整理に伴い、川井町・下川井町の一部から新設された町で、新編武蔵国風土記稿には「下川井村の小字矢指谷、西南の方にあり」と記されている古い地名です。

  「ヤ」は谷戸・川沿い・湿地などに多く見られる言葉であり「サシ」は焼畑を表す言葉だと言われています。そう考えると、水利があり、焼畑耕作をしていたことに因む地名ではないかとも考えられます。

  ところで川井宿町にある矢場八幡社には次のような社伝が残っているそうです。
「泳保三年(1083)奥州後三年の役に向う八幡太郎義家が当地に宿営し、八幡大神に戦勝を祈願して矢を射たという。その矢を射た所が、下川井の『矢場通り』、その矢が到達した所が『矢指』である。義家は、この時「戦いに勝って源氏の宿願が叶えられたら当地に八幡神社を建てましょう」と誓いを立て、凱旋の帰途、寛治5年(1091)ここに社殿を建てたという。」

  地名の変遷については、また機会を見て触れたいと思いますが、ここでは、笹野台地区に直接関わりのある地名について記しました。なお、この近隣の字名を今の地図に当てはめると、およそ上の図のようになります。「追分」「筑野(つくの)」なども昔の字名です。

次回は、笹野台の町ができはじめた60年前の頃のことを載せたいと予定しています。

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