わが町のあゆみ
笹野台いまむかし

7. 笹野台誕生

(1) 住宅の増加めざまし
 前回に記したように、昭和30年代前半は笹野台の区域にいくつもの大型の住宅分譲地の造成が行われました。30年代後半になると、これらの分譲地に次々と家が建ち、それにつれてその周辺にも住宅が増えて来ました。次のページに昭和40年頃の『笹野台地区明細地図』がありますので、前回の36年当時の地図と比べてみると、町の広がっていく様子がよくわかるでしょう。特に金が谷道をはさむ今の中央自治会のあたりがすっかり開けています。露木が丘の奥の方も富士見が丘の辺りも空いた区画が少なくなっていることがわかると思います。35~36年頃から40年代にかけては、まさに笹野台の町が伸びて行く時期でした。

(2) 町の施設など着々と整う

 町の発展は相模鉄道と深く関わっています。町の人口が増えることにより駅や車輌の改良増強が必要になるし、電車が便利になればこの町へ越してこようという人も増えます。相模鉄道と笹野台は三ツ境の駅を通して互いに影響を及ぼし合っています。
 鉄道の改良は、まず複線化から始まりました。開通以来長らく単線だった路線も複線化が進められて西横浜から希望が丘までは既に複線になっていましたが、昭和33年には希望が丘~三ツ境間の複線化が完成しました。大和まで複線になったのは昭和35年です。それに伴って駅の位置も少し瀬谷よりに移り、ホームの延長、新しい三ツ境駅の駅舎ができました。駅の脇には踏切が設けられて線路の南北の往来が便利になりました。踏切はその後昭和39年に跨線橋に改められました。相鉄の電車の運行本数も車両が増えました。特に相鉄が自社の新しい車両として作った5000系は全国の私鉄の優れた車両として鉄道博物館で紹介されるほどでした。
 駅前には、当時としてはまだ珍しいスーパーマーケットとして『相鉄ストア第一号店』が駅前に開店したのは昭和38年のことでした。住宅地として開けていく土地柄に合わせて、その隣には家具センターがありました。
 交番はまだありませんでしたが、三ツ境側の駅前に交番が作られたので、ちょっと安心でした。不便だった電話も、昭和36年に希望が丘に新しい電話局ができて電話を引きやすくなりました。昭和39年には、今の笹野台会館の所に笹野台の『青少年の家』が作られました。
 昭和36年には隣に『東希望が丘』、昭和37年には『三ツ境』という名の新しい町が誕生しました。そして、昭和39年5月1日、我々の住む町が『笹野台』という名の新しい町として歩み始めたのです。翌昭和40年に新しい町『金が谷』もできました。

昭和38年頃の三ツ境駅             相鉄ストア第1号店

改札口は上り下りの両側にできた。      平屋建ての広い売り場だった。右側の棚の
踏切と番小屋が見える。             
向こうは線路。その先に跨線橋もみえる。

昭和39年の三ツ境駅付近

相鉄5000系の電車
行き先は「本厚木」か?
ある本の広告に載っていた写真です。その頃の三ツ境駅付近の様子がわかります。複線化された線路、新しい電車、坂の登り口にできた駅前交番。道は舗装されましたが、今のダイエーやバス発着所の所は林でした。商店の様子にも時代を感じます。 町の発展はした。商店の様子にも時代を感じます。

三ツ境駅の跨線橋(昭和40年頃)
三ツ境側から笹野台の方を写しています。
向こう側に「三ツ境名店街」看板が見えますが、現在の横浜信用金庫のある場所です。
その手前には「相鉄ストア」の看板のマークと文字が見えます。
左手にバスの看板らしきものがありますが、南瀬谷行のバスは相鉄ストアの向かい側から発着していました。

(3) 笹野台商店街が出来る
 前掲の昭和36年の地図を見ると、金が谷道には人家もほとんどなく、店は森金物店一軒しか載っていません。ところが昭和40年頃の地図を見ると、駅から楽老峰住宅の間に住宅が増えて、道沿いに商店も並んできています。この4~5年の間に笹野台は急速に町としての形を整えてきました。
 商店街の様子を抜き出してみると、その頃あった商店はおよそ図のようでした。食料品関係の店が多かったようです。山田米店、百木薬局などが開店したのは商店街でも早い方でした。次々と店が出来て、昭和40年頃には、楽老商店街あった豊国屋食料品店が移ってきましたし、商店街の入り口には、『三ツ境商店街』という日用品市場が出来ました。中には、肉屋・魚屋・菓子屋・薬局・お茶屋・洋品店などが入っていました。駅前の相鉄ストアもできていたので、買物はずいぶん楽になりました。
 このようにして駅から奥の住宅街まではすっかり町らしくなってきたのでした。

(4) 新しい自治会が作られた
 昭和39年当時の笹野台地区の世帯数は約800世帯になっていました。横浜市全体でも、人口の増加が著しく、特に保土ヶ谷区の西部(現旭区)など、新しく開けた土地は古い町名のままでは不都合なことも出てきましたので、新しい町名を付けるようになり、東希望が丘、中希望が丘、中沢町、中尾町など二俣川の地域からは次々と新しい町が誕生しました。
 川井の地区では、三ツ境に近い大野、天野、笹山の三つの字を一つの町として『笹野台』と名付けました。旧字の名やこの土地の地形を表す町名だったので、この名は順調に決まったようです。
 新しい町となって人口が増えてきたので、自治会活動も今までのままでは運営が大変になってきました。笹野台全体をひとまとめにして活動してきた境友自治会は、ここで発展的に改組しました。そして、中央、東笹野台、楽老峰、露木が丘、富士見という新しい自治会が結成され、境友自治会は現在の二丁目の部分を区域とすることになりました。そして、この6つの自治会の連携を深めるために『笹野台連絡協議会』を作りました。昭和39年5月のことでした。数年して、この組織は『笹野台地区連合自治会』となり、組織も拡大しました。
 この時期には、広島敏雄氏や常磐豊次郎氏の尽力で、相模鉄道から土地の提供を受け、市の施設として『笹野台青少年の家』を設けることが出来ました。町の拠点が一つ出来たわけです。今はそこに『笹野台会館』が作られています。
 『笹野台』としての地域活動が始まったのは、この昭和39年からです。

 

ページの先頭へ