わが町のあゆみ
笹野台いまむかし

12. 町の発展・町の成熟
1. 町の広がり
 昭和30年頃から開け始めた笹野台は、昭和40年代に入って爆発的といってもよいほどの勢いで町の広がりを見せ、ここに住む人々も落ち着いた生活ができるようになりました。日本の高度成長に時代あらわすように、50年代になると町はますます広がりました。その勢いは60年代になっても続き、新しい分譲地ができたり、未利用の土地が開発されたりして、ほぼ、今のような形になりました。笹野台の区域は宅地化さりて農地がなくなりました。平成元年に作成された笹野台小学校の社会科資料集には地域の産業として「農家のようす」が野菜栽培・水耕栽培・酪農など3件ほど載っていましたが、10年後の改訂版では、農業に関する記事はなくなっています。
 年号が平成に変わってからも、笹野台の町の発展は続きました。それまでは郊外を感じさせられた駅前も、すっかり都会らしさを増して、笹野台もすっかり成熟した町という感じになってきました。別掲の昭和45年頃と昭和30年の地図を比較してみると、その頃の町の広がりがよくわかると思います。

2. 住居表示の変更
 昭和37年に「住居表示に関する法律」が制定されたのに伴って、横浜市でも市街地における住所はこれに基づいて、住居表示整備事業が行われることになっていました。住居表示の実施は、市街地の中の住所の混乱の著しい所から順次行われることになっていましたが、笹野台全域と金が谷の大部分の表示変更が行われ、丁目が設定されたのは平成3年のことでした。
 笹野台には1丁目から4丁目が設定され、金が谷には1丁目と2丁目が設定されました。この連合自治会に属する部分はすべて○丁目○番と表示されるようになりました。区域外の金が谷ではまだかつての地番をそのまま使っている所もあります。
 住居表示の変更が行われたことは、この地域がすっかり都市としての形になってきたことの表れでもあります。早くからここに住んでいる人たちにとっては、保土ヶ谷区下川井町○番地→保土ヶ谷区笹野台○番地→旭区笹野台○番地→旭区笹野台○丁目○番と区名・町名・番地が何度も変わりました。そのたびに住所のゴム印を何回も作り直して大変だったとの話も聞かれましたが、この改正でやっと自分の住所がきちんと定まったとほっとしたといいます。もっとも郵便番号がその後7桁表示に変わりましたが・・・。

3. 自治会施設の充実
 町が広がったので人口も増え、新しい自治会もできて連合自治会は12の単独自治会で構成されるようになりました。昭和56年には露木ヶ丘自治会から向日葵自治会が分離独立し、よく57年にはテラスハウス自治会が生まれ、62年になると南笹野台自治会が発足しました。
 それぞれの自治会の活動も盛んになりましたが、連合自治会も組織的な活動の充実を図るとともに、施設の整備を進めました。 地域活動の拠点として自治会館が欲しいということで、『笹野台会館』が開設されました。それまでは、笹野台3丁目には、横浜市の施設として昭和39年に『青少年の家』が造られていました。この施設の建設については、市関係者への熱心な折衝に当たった当時の連合自治会長の常盤豊次郎氏や、用地確保のために相鉄との交渉に当たった地元の広島敏雄氏の大なる尽力がありました。地域の公共施設として大事な存在でしたが、青少年会館はあくまでも青少年育成の目的に使うということで制約がありました。自治会活動が活発になってくると、地域の誰もが利用できる会館をという要望が高まり、関係企業などの承認を得て建設の運びとなりました。この建設には、当時の連合会長清澤嘉右衛門氏が奔走されて昭和61年1月に開館に漕ぎつけたのです。青少年会館の建物もそのまま残され、自治会館の一部として使用できるようになりました。会館には、当時の横浜市長細郷道一氏の揮毫による『連帯』という文字の額が掲げられています。
 笹野台会館は、地区連合自治会関係の行事のほかに、サークル活動など地域の人にいろいろ利用されています。
 会館に隣接して平成元年には消防器具倉庫が新設され、同5年には新しい消防自動車を購入して消防団の活動にも便利になりました。
 単独自治会でも、会館建設の機運が動きはじめていました。自治会館の建設には、建設資金の調達もさることながら、何より敷地の確保が必要です。すでに開発が進んでいたこの時期だったので、建設を考えながらも実現できない所もありました。それでも、連合自治会と時を同じくして昭和61年に境友自治会館が作られたのをはじめ、金が谷自治会、南笹野台自治会、さらに岸本自治会、富士見ヶ丘自治会、東希望が丘自治会の会館が相次いで作られました。

4. 住民のための公共施設など
 急激な町の発展に追いつかなかった住民のための施設も、昭和50年以降には次第に作られるようになりました。周辺の開発、整備も進んできました。
 昭和50年には、楽老ハイツの南側に相鉄線に並行して三ツ境~草柳線の新しい道路ができました。51年になると、相鉄の二俣川~いずみ野間に「いずみの線」が開通しました。笹野台周辺の道路も拡幅や舗装などの改良が進められ、住民が道路に関心や愛着を持ってほしいと、市では道路に愛称をつけるようになりました。『中原街道』や『旧厚木街道』のように歴史的な名をとったり、『金が谷道』『野境道路』などと地域を表す名にしたりして、日常的に用いられるようになりました。52年には、金が谷郵便局が開局しました。
 その頃、当時の連合自治会長の清澤嘉右衛門氏は地域の緑の保全の必要性を説き、笹野台緑地の整備に努力されました。55年には緑地の管理運営が連合自治会に委託されましたが、はじめは除草作業などが大変でした。その後、市の緑政局にお願いして、現在のような小型グラウンドを整備してもらい、今ではゲートボールをはじめ住民の健康や親睦などの場として役立っています。
 61年には、連合自治会の拠点となる笹野台会館が完成しています。三ツ境の駅ビル『相鉄ライフ』も開業しました。駅前のバスターミナルの完成も同じ頃です。
 62年には、地域医療の充実をはかる横浜市の計画に基づいて、聖マリアンナ医科大学横浜西部病院が隣接する矢指町に開設されました。その隣には、神奈川県水道企業団の施設ができていました。
 63年には、それまで『荏原グランド』として使われていた運動場が、横浜市に移管され『笹野台北公園』として整備され、その管理運営は連合自治会に委ねられるようになりました。これにより、地域の行事や憩いの場として、ソフトボールや夏祭り・どんど焼行事や、地域の人の憩いの緑陰や散策の場所として広く活用できるようになりました。平成元年には、笹野台小学校には市民図書室が開設されました。
 笹野台に隣接した広大な鬱蒼たる森は、平成3年に『矢指市民の森』、同6年に『追分市民の森』として整備され、手入れが行き届いた市民の憩いの場となりました。近くには『瀬谷市民の森』があり、菜の花祭りなどの行事も行われるようになり、四季を通じて散策する人の姿が見られるようになりました。

5. 商店街と駅ビルと
 金が谷道には、昭和40年頃から商店がだんだん増えてきて笹野台商店街ができていました。商店街は、町の人口の増加にともなって、だんだん広がり、昭和50年代には駅前商店街として繁盛してきました。商店街の入り口には『三ツ境名店街』があって、昔の日用品市場のようにいろいろな店がはいって賑わっていました。毎日の生活に必要な品はほぼこの商店街で間に合いました。駅前には昭和38年に開業した相鉄ストアがあったり、線路向こうの三ツ境商店街も賑わって、駅の周辺は町としての景観が整ってきていました。町の広がりに伴って、小学校の下の辺りの金が谷にも食料品関係の店ができてきました。

 昭和60年頃からは、町の様子も少しづつ変わってきました。いちばん大きな変化は、相鉄三ツ境駅ビルの出現です。三ツ境駅の改良と駅前開発の計画が具体化して、昭和61年に駅に直結した4階建ての駅ビルが完成し『相鉄ライフ』と名付けられ、昭和61年10月に開店しました。相鉄ストア『そうてつローゼン』やいくつもの専門店があり、大きな駐車場も設けられ、広い範囲からのお客も集めるショッピングセンターになりました。
 今まで笹藪だった丘や水溜りもできた窪地も整地され、立派なバスターミナルも作られました。それまでも木造の二階建ての店がだんだん鉄筋コンクリート作りの建物に変わっていってはいましたが、その頃になると駅前には店舗や事務所と住宅を兼ねた鉄筋コンクリートの大きな建物が作られるようになりました。広島第二ビルには大型の電気店や銀行のキャッシングサービスコーナーなども入りました。
 平成10年頃には名店街は取り壊されて、大きなマンションができ、階下には横浜信用金庫が移店してきたり、いくつかの商店も営業するようになったり、コンビニエンス・ストアも開店したりして商店街をとりまく状況は変わってきました。それでも笹野台商店街の人たちは、地域の人との関わりを大切にして店を守り、平成10年頃までは道の両側に店舗が並んでいました。また、駅前には医院や薬局がだんだん増え始め、健康生活の上では便利になってきました。

6. 地域行事の活発化
 地域が広がり、人が増え、地域の組織的な活動ができるようになって、地域のいろいろな行事も行われるようになりました。
 今も盛大に行われている笹野台夏祭り、盆踊り大会は昭和51年~52年頃より行われてきました。子供たちに楽しい思い出をということで、各自治会ではそれぞれ工夫して御御輿を用意しました。手製のが樽御輿を作ったりしました。北公園が整備されてから、夏祭りにはいっそう力が入ってきました。
 スポーツ・レクリエーションを通じて住民の親睦を深め健康を高めたいという活動も盛んになり秋の体育祭のほか、ソフトボールやゲートボールなど老若男女それぞれの運動を楽しむ機会を設けたりしています。旭区の大会でもそれぞれに良い成績をおさめてきました。新年の賀詞交歓会、連合自治会関係者の野外研修会なども定例行事となっています。
 笹野台地区社会福祉協議会は昭和62年頃にはすでに作られていたようですが、まだ活動は暗中模索のようでした。しかし、その必要感や存在意義がだんだんに認められ、連合自治会とともに地域の福祉活動が進められるようになりました。老人昼食会、どんど焼き、社協だよりの発行などが行われるようになりました。
 変わった事業としては、昭和62年には地域内の主な坂に『愛称』をつけたことでした。「駅前坂」「境友坂」「楽老坂」「あずま坂」「露木坂」「向日葵坂」「もえぎ坂」「金が谷坂」「岸本坂」など坂の名を書いた標識が取り付けられました。
 通学路の安全をはかって、学校を中心にスクールゾーン協議会が構成されていましたが、地域からも積極的に交流し、関係者とともに危険箇所や要改修箇所の点検も毎年行ってきました。三ツ境駅前の道路の放置自転車の撤去なども働きかけ、歩道の通行の安全をはかったりしました。
 平成8年(1996)には、笹野台地区連合自治会創設30周年記念式典・祝賀会が催しされました。

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