わが町のあゆみ
笹野台いまむかし

5. 『三ツ境』と『笹野台』

 笹野台は三ツ境との関わりで発展してきました。笹野台は相模鉄道の「三ツ境」駅に近いということで開発が始まった町です。また、前回に触れたように、下川井の村はずれともいえるこの地の人々が、昔から阿久和や二俣川等隣村の人達との付き合いを大事に生活してきたことを考えると、三ツ境について知っておきたいところです。

(1) 新しい町『三ツ境』
 『三ツ境』という町は瀬谷区に属していますが、昭和37年(1962)に生まれた新しい町の名です。その地名の歴史を辿るといろいろな経過がありました。早くから笹野台に住んでいた人にとっては大切な生活圏でした。
 相鉄『三ツ境』駅に近いことから、新しい三ツ境の町は、昭和25年頃から昭和30年頃にかけて開発が進められて、めざましい発展をみせました。笹野台の開発が始まった頃には、住宅街も広がり、商店街も整って、新しい郊外の町の姿ができていました。
 ところで、その頃は三ツ境の駅の辺りの地名は戸塚区阿久和町鎌取でした。町としての『三ツ境』が生まれたのは、『笹野台』が生まれる2年前のことです。阿久和町のうち、鎌取、東原、運上野の三つの字の範囲を新しく『三ツ境』という名の町にしたのです。町の名がこのように決まったのは、『三ツ境』駅がすでに知られていたので、その名前をとれば分かりやすいということでした。
 三ツ境という地名のの由来については、いくつかの説がありますが、むしろ旭区二俣川との関わり方が深い古い地名です。その地名が駅の名になり、駅名が町名になったというわけです。
 似たような町名の誕生は旭区の鶴ヶ峰でもありました。『鶴が峰』は本来白根の丘を指しているのですが、駅名が『鶴ヶ峰』となったので、駅に近い一帯の町名を『鶴ヶ峰』としたようです。

(2) 三ツ境という地名の由来
 『三ツ境』は、古くは『密経』あるいは『三経』と表記されていることが多かったようです。二俣川の字名として「三経」「密経」がありました。江戸時代の文書には「三経新田」または「密経新田」という地名が見られます。三ツ境』という文字が一般的に使われるようになったのは、相模鉄道が開通してここの駅名を「三ツ境」としてからです。

地名の由来としては次のような説明がされています
ア、東希望ヶ丘の長楽寺に因んだ名前(密経
イ、東西・南北への道が交わる所(三経
ウ、三つの村(町)の境の地点(三ツ境
では、この三つの「ミツキョウ」について、少し調べてみましょう。

① 三つの村の境
 さて、『三ツ境』の地名については、一般には「三つの村の境」という地理的な説明がされています。たしかに、三ツ境奉斎殿の北側の笹野台一丁目31番地の所で、旭区笹野台(都岡村川井分)、東希望ヶ丘(二俣川村)、瀬谷区三ツ境(中川村阿久和分)の三つの町の境となっています。

[注()は明治22年(1899)町村制施行時の村名]
 しかし、日本語の読み方からすれば、三ツ境は「ミツザカイ」あるいは「サンキョウ」と読みたいところですが、「ミツキョウ」という読みにするのは、何かいわれがありそうな気もします。

② 密経・三経
 天保時代の瀬谷村の古文書(天保14年発行「年貢取立人甚五左衛門宅打壊母并召使打擲の件」)の中に、瀬谷村や瀬谷の新田の人物に混じって「武州都筑郡密経新田弥左衛門」という名が出ています。
 また、相鉄の陸橋のあたりに「密経新田(三経新田)」があったといいます。
 さらに、希望が丘中学校の北側の春の木神社には「密経塚」があって、神社の境内には、平成10年頃には『三経の地』と書かれた案内版が立てられていました。その全文は次のようです。
我が町の神社
 春の木神明社、武蔵の国都筑郡二俣川村字三経の地に約四百数拾年前より鎮座して今日に至っています。
この地は海抜92米で横浜市で最も高い所とされています。東は横浜の海を控え、南は鎌倉から江の島を遠望し、西に相模平野を隔てて丹沢小
塊、そして霊峰富士を仰ぎ、北に秩父連小を一望することができます。
 祭神は「いざなぎの命」「いざなみの命」と「天照大神」が祠られていて家内繁栄、商売繁昌、交通安全、学業成就等諸願にご利益があります。 春の木神明社

密経塚には次のような言伝えがありました。
(昭55旭区郷土史刊行委員会発行『旭区郷土史』)

「江戸時代の始め、この地に疫病が流行したため、当時春の木神社の別当であった僧侶の教えに従って、家を焼き住民は川の流れの異なった春の木に移り住んだ。その際、重要な物、中古衣類、道具を神社の境内に持ち寄って、僧侶の読経にうちに経文と共に焼却し、その灰を穴に埋めた。それが密経塚といわれ三か所ある。
 また、『朝日さし夕日かがやく丘の上 黄金千バイ朱千バイ』という伝歌がある。伝歌に基づき、明治のはじめに一つ、昭和37年に一つ発掘したが、残念ながら灰が大笊三杯ほど出ただけだったそうだ。」
密経」の名は、東希望ヶ丘の長楽寺に関係があるといわれています。『旭区郷土史』では長楽寺(浄土宗)の由緒について「三経山浄業院と号し、開山は法誉天暦人、寛永2年領主宅間二郎規次の開基・・・」と記されています。

 山号の「三経山」が地名に因んだものか、それとも山号が地名になったのかはわかりません。この寺はもっと古くは禅宗の寺として鎌倉時代に作られたものだともいいます。いずれにしても、この寺と「ミツキョウ」という地名は何らかの関わりはあるようです。密には秘密という意味もありますが、親密・密接など「ちかしいこと、すきまのないこと」などの意味もあります。この寺が地域との深い関わりを持っていたように感じます。

③ 『三経新田』
 新編武蔵国風土記稿の「二俣川村」の項に「密経新田 小名三経、東北の方なり」の記録があります。また、日本歴史地名体系巻14『神奈川県の地名』には、次のような解説があります。
「『三経新田』(旭区二俣川、瀬谷区三ツ境) 東は武蔵国都筑郡二又川村、南から西は阿久和村、北は都筑郡下川井村に接する。ほとんどが、高台の畑地であった。貞享4年(1687)小高市右衛門が小高新田を開発した時、その地も計画に入っていたが、広大な山林であったので着手に至らなかった。のち玉置小兵衛の子孫一軒(風土記稿)。明治5年高9石余。家数3、人数13(横浜市史)。」
三経新田』は、文書や地図で『密経新田』『三ツ境新田』とも書かれています。
また、『三経新田』は、『小高新田』とも呼ばれていました。(「瀬谷区の歴史・宗教編」)小高市右衛門と玉置小兵衛の関係はよくわかりません。あるいは小兵衛が市右衛門の依頼を受けて開発し、開発後の新田は小高氏の支配のもとに置かれたのではないでしょうか。
 それでは『三経新田』はどこだったでしょうか。
 その場所・範囲の詳細は明らかではありませんが、三ツ境橋(陸橋)から八つ橋幼稚園のあたりへかけて線路をはさんで南側へ広がる一帯の丘と考えられます。昔の地名でいえば二俣川村の字『三経』、字『密経』、字『出狩場』と呼ばれる所です。
 『小高新田』の中心は旭区小高町一帯ですが、旭区内にいくつもの飛地がありました。中希望ヶ丘240番地近辺、東希望ヶ丘230番地付近は昭和36年までは『小高町』という町名でした。「三経新田は小高新田とも・・・」という言葉からするとここが三経新田であったと考えられます。
 平成3年横浜市役所発行の『横浜の町名』には、中希望ヶ丘、東希望ヶ丘について「二俣川町・小高町の各一部より新設された町」と記されています。
 また、三ツ境陸橋のそば中希望ヶ丘249番地には以前『三ツ境神社』というお宮がありました。建立の時期や命名の由来は詳らかではありませんが、昭和の初めまで庚申塔などもあったということです。神社は今東希望ヶ丘の春の木神社に合祀されているとのことです。この神社は佐藤という人の屋敷内に置かれていて氏子の数は12戸とか。新田を開墾するために入村した人達が先祖の信仰の拠り所として奉祀したものではないかと考えられます。近くにある佐藤家の古い墓碑には亨保18年(1734)と刻まれていたといいますが神社の建立もその頃ではないでしょうか。
 なお、新編武蔵国風土記稿は、この新田が貞享4年(1687)に開墾されて、元禄8年(1659)に検地されたとあり、「旧高旧領取調帳」に三経新田の高は9.8石と記されているとあります。新田の家数は、天保初期は1軒、明治5年には3軒(13名)とあります。
 ところで、二俣川村の字名として「三経」「密経」「出狩場」について考えてみましょう。まずは、「三経」。「経」という字には「すじ」「みち」「さかい」などの意味があります。三経には三つの道の合流点という意味も考えられます。二俣川から神奈川方面へ、阿久和から戸塚方面へ、瀬谷から厚木方面への道です。また「さかい」というむ意味をとれば「三ツ境」と同じことを意味します。
 字「密経」は村内に2カ所あります。本来は春の木神社の辺りのことで長楽寺に縁のある名かと思われます。釣堀の辺りにあった字三経に近い方の字「密経」は神社に近い「密経」の人が開拓した場所ではないでしょうか。
陸橋の東側、東希望ヶ丘ハイツ辺りは字『出狩場』と呼ばれていました。かってここにあった市営住宅は「出狩場住宅」とよばれ、旧町名も「小高町」でした。ここは、他の地域の人がこの場所に出向いてきて開墾した所ではないでしょうか。

 ある古文書に「密経」と記したものを見たことがあります。密経は二俣川の字で独立した村ではないはずです。天保年間の文書から考えると、これは三経新田のことを指しているのではないでしょうか。三経新田は二俣川村の枝郷で、通知などは直接新田へ届けられたのかと思われます。坂倉新田や上川井新田も上川井村の枝郷となっていました。

 なお、新田というと水田を思い浮かべますが、旭区内にあった新田はほとんどが陸田で、三経新田も例外ではないと思います。昭和55年発行の『旭区郷土史』に山田公雄さんが昭和30年頃に撮影した希望ヶ丘から三ツ境方面を写した写真が載っています。先方のゆるやかな斜面が、昔の三経新田だったと思われます。車中から線路の両側に開けたゆるい斜面を眺めて、ここに新田を開発した昔の様子を想像してみるのも一興ではないでしょうか。

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