戦争にふりまわされた小学校中学校時代
・・・動員そして戦災の体験など・・・

第2章 日中戦争の頃
(小学校・国民学校で)

1.中国との戦争が始まる
 私が小学校に入学したのは昭和11年(1936)4月。1年生の時はまだ平穏な時でした。
入学した頃は、戦争は始まっていなかったのですが、教科書では1年生の時から兵隊さんに憧れるような教材がありました。
国語の教科書には「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」としう教材がありました。小学唱歌(音楽)には、「テッポウ カツイダ ヘイタイサン アシナミ  イサマシイ ヘイタイサンハ キレイダナ・・・」という歌がありました。兵隊は勇ましくてかっこよいということが自然に子供心に受け止められるような世の 中だったのですね。
「満州事変」の頃から、軍人や政治家たちが、軍事力で他の国を押さえ付けたり、支配したりしようとする動きが強くなってきた のです。軍隊を強くし、戦争に協力する国民を育てることを考え、日本は戦争への道を歩き始めたのです。日本は国を護るためだからと、満洲や中国の土地に軍 隊を駐留させていました。戦争は昔のこと、よその国でのことと感じている人も多かったのです。戦争は海の向こうの中国で行われ、日本の本土が戦場になるこ となどは考えも及ばなかったといえるでしょう。

中国との戦争が始まったというニュースを聞いたのは、2年生の時でした。昭和12年 (1937)の7月のことです。当時はこの戦争の名は『日支事変』でした。昔は中国のことを「支那」と呼んでいました。また、宣戦布告しないままの軍事行 動なので「戦争」という言葉を使わず「事変」といったようです。今はこの戦争を『日中戦争』と言っています。
その年、私は4月から大病をして学校を休み、やっと治りかけて家で休んでしました。戦争ということがピンとこなかったし、これから何が起こるか、そんな予測は全く持ちませんでした。
それまでの日本と外国との戦争は2年以内には収まっていたのですが、この時始まった戦争は長引いて、それから5年後には太平洋戦争になってしまいました。 昭和20年に敗戦で終わるまで、戦争は9年間続きました。私の小学校・中学校は、ちょうどこの9年間に重なります。まさに戦争に振り回された学校生活でし た。

2.戦争が始まって

(1)兵隊さんは戦地へ

兵役・徴兵検査  日本の男の人は兵役の義務といって、決まった期間軍隊にはいって兵隊として働くことが義務になっていました。満20歳になると、兵隊に適しているか調べら るため徴兵検査がありました。そこで甲種・乙種・丙種と区分けされ、ふだんは甲種の人だけが軍隊にはいりました。こうして軍隊に入って訓練を受けている兵 隊たちは現役と言われ、非常の際はどこへでも派遣されるのでした。甲種の人が足りなくなると乙種の人も現役に組み込まれました。(しかし戦争が激しくなる とこの人達もみな兵隊にさせられました。)
一定の期間軍隊に行って訓練わ受けた人たちは、現役が終わると予備役になりました。予備役の人達は戦争などの非常時には動員されるようなきまりになっていました。

兵隊の招集  戦争は広い中国で行われたので、兵隊の数もたくさん必要になりました。そこで、家庭に戻っていた予備役の兵士たちも、再び軍隊に呼ばれるようになりました。

赤紙』と呼ばれていた『召集令状』が来ると、どんな仕事をしていても、家にどんな事情があっても軍隊に行かなければならなかったのです。
私の家の隣近所でも会社員のOさんや中学校の体育の先生だったMさんも招集をうけました。
当時は、軍隊へ行くのは名誉なことだと誰もが思っていました。思わされていたといった方がよいかもしれません。近所や町内の人達もみんなで壮行会を開いた りして、出征する(戦場へ行く)兵隊さんを『万歳・万歳』と励まして送り出しました。大勢で行列を作っと駅まで見送ったりしました。出征する人は日の丸の 襷を巻いて皆に挨拶をしていましたが、戦争に行けば生きて帰れるかどうかわかりません。家族との別れはつらいけれども、「お国のため・・・」と元気を見せ て出ていったのです。
送っていく時、「出征兵士を送る歌」というのがよく歌われました。「わが大君に召されたる 命映えある朝ばらけ 讃えて送 る一億の 歓呼は高く天を突く いざ征けつわもの 日本男子」というような歌で、兵隊を勇ましく送り出すために作られた歌だったのでしょうが、これを聞く と勇ましいというより何か悲壮な感じがしてなりませんでした。
この出征兵士を送る風景は、戦争が長引き、次から次へと招集が続き、また壮行会を開くための食料や物資も手に入らなくなって、いつの間にか見られなくなりました。
男の人が招集されたあとに残るのは女や子供・老人です。働き手が出征したあともしっかり家を守らなければなりません。「しっかり銃後を守れ」といわれて、お母さんがお父さんの代わりに働いたりして家族を守らなければならなかったのです。銃後とは、戦場の後方、直接戦闘には加わらない一般国民のことです。

千人針  戦地に行っても無事で帰ってくるようにという願いを込めて、お母さんたちや婦人会の人達は、街角に立って道を通る人に協力してもらい『千人針』を作って出征する人に贈りました。
千人針とは、1枚の白い布に千人の女性が一人一針ずつ赤い糸で千個の縫い玉を作ったもので、これを腹巻にしていれば、弾丸よけのお守りになるといわれてい ました。「虎は千里行って千里帰る」と言われていたので寅年の女の人には年齢の数だけ縫ってもらいました。武運長久と印刷された千人針用の布もありまし た。みんな兵士の無事を願う人の祈りのいるしでした。


英霊の帰国  どんな理屈をつけようとも戦争は殺し合いです。戦争が続くと戦死者の数も増えました。その遺骨が戦地から戻ってきます。『英霊』(戦死した人の霊)の帰還といい、「名誉の戦死」と称えられても、それを迎える時は悲しいし、家族にとってはつらいことでした。
町の人達が駅まで迎えに行き、区民葬の会場までしずしずと行進したりしました。小学生だった私も横浜駅まで行ったことがあります。ブラスバンドが奏でる葬送行進曲の響きは淋しく響いていたことを今でも覚えています。

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