戦争にふりまわされた小学校中学校時代
・・・動員そして戦災の体験など・・・

第1章 戦争が始まる前
(小学校にあがる頃まで)

昭和になって

  私が生まれたのは昭和4年(1929)です。その頃の東京・横浜などでは、大正12年(1923)にあった関東大震災の災害からやっと復興してきていまし た。しかし、世界大恐慌が起こり世の中は不景気で失業者も多かったのです。でも、外国の影響もあり選挙の制度も改まって『普通選挙』(注1)が行われるよ うになったり、ラジオ放送が始まったり、私鉄の路線が次々と開通したりしていました。映画や演劇・流行歌やダンスなど楽しいことも盛んになりました。街に は紙芝居屋さんが来て、子供たちはその周りに群がって楽しんでいました。
昭和は明るい平和な時代にしたいという願いをこめてつけられた年号だったようです。たしかに人々は昭和の時代を喜んで迎えました。
この頃、第一次世界大戦の反省に立ち、世界平和を願って15の国がパリに集まって「戦争放棄に関する条約」を結んだり、各国の軍備を制限しようと。ロンドンで軍縮会議を開いたりしていました。
そんんな中で、日本では軍人たちが勢いを増してきていて「強い日本にしよう」と、この条約や会議の決定に不満を持ち、政治家たちに軍の言うことを聞かせた いという動きが出てきていました。浜口総理大臣が暴漢に殺されるという事件も起きました。国民の思想や行動を監視する『特別高等警察(特高)』(注2)が 設けられました。
隣の中国では、国の中で争いが続いていましたが、それまでの清国王朝にかわって『国民政府』(注3)が中国国土を支配するようになりました。

 幼い頃に親から聞いた戦争の話は『日清戦争(1894~1895)』や『日露戦争(1904~1905)』のことでした。日露戦争が終わってからまだ30年ぐらいしか経っていなかったのですが、その頃は遠い遠い昔のことのように感じていました。
昭和6~7年(1931~1932)には満洲事変(注4)がありました。どの戦争も2年以内に日本の勝利で終わりました。戦場は中国の土地で行われ、日本の本土が外国の軍隊から攻撃を受けることは誰も考えることもありませんでした。
満洲事変は次の昭和7年(1932)に終わりました。そのあと、ここに満洲国(注5)ができ、日本から満州へ大勢の人が渡るようになってきました。
当時世界の平和のために作られていた国際連盟(注6)は、満洲事変を問題にして、日本と中国の紛争について調査を始め、その結果がリットン報告として示されました。世界は日本の軍隊が強くなってきていることを警戒するようになってきたのです。

----- 【注釈】 ----- 
(1)普通選挙...一定の財産・納税・教育・信仰などを選挙権の条件にしない選挙。
日本では1928年の選挙から、成人男性は誰でも選挙で投票できるようになった。女性が参政権を得たのは戦後(1946)のことである。
(2)特別高等警察...特高と呼ばれた。旧警察制度の中で思想犯罪の取り締まりのために特別に設けられた警察。
共産主義や社会主義・自由主義を弾圧した。人権無視の不当な取り調べや刑罰が行われたりした。1911年から1945年(終戦)まで続いた。
(3)国民政府...中国の国民党が組織した中国政府。
辛亥革命で清朝が倒れた後1925年にできた。混乱を経て蒋介石が指導者となり1927年南京を首都とした。日本は1928年にこの政府を承認した。
(4)満州事変...満州とは中国東北部の一帯をさす地名である。
昭和6年(1931)中国の奉天(瀋陽)近くの柳条湖での列車爆発事故をきっかけに日本軍と中国軍の間で戦争が始まった。宣戦布告(戦争を始めるぞと言う 通告)をしない戦争なので『事変』と呼んでいる。満洲は広大な農地や豊富な地下資源に恵まれ、日本からの工業製品の輸出先でもあった。日露戦争の後、日本 は資源確保やロシアに対する警備のために、ここの開発を手掛けたが、何かと紛争が絶えなかった。戦争になってしまった。政府は戦争が拡大しないようにと努 力したが、軍部の力が強くて抑えきれなかった。この戦争が長い戦争の引き金となった。
(5)満洲国...満洲事変の後、満洲(遼寧省、吉林省、黒龍江省と東部内蒙古)に日本軍によって成立させた国。
清朝最後の皇帝を迎え「五族協和・王道楽土」のスローガンのものとに建国された。五族とは日本人・朝鮮人・満洲人・モンゴル人のことという。王道楽土とは 王様のもとに治安がよく豊かな生活が営める国という意味である。その理想へ向けてまじめな取り組みが行われればすばらしい国になったはずだが、実際には日 本の手先になってその意のままに動く国であった。
満洲国の農地の開発や工業の建設に多くの人が日本から出かけて行った。国防のためにと現地には「関東軍」という日本の軍隊が置かれた。
昭和20年の日本の敗戦とともに満洲国は消滅した。
(6)国際連盟...第一次世界大戦の後、世界平和維持と国際協力を目的として1920年に発足した国際機構。
42か国が参加し、国際紛争の平和的解決・軍備縮小・集団的安全保障をめざしたが、アメリカの不参加、日本やドイツの脱退などで機能しなくなった。第二次世界大戦後、国際連合(UNO)ができたので連盟は解散した。
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  昭和7年5月、軍人が政府の要人を襲い、犬養総理大臣たちが殺害されるという5.15事件が起きました。そして、日本は国際連盟を脱退しました。また、日 本は日本・アメリカ・イギリス・フランス・イタリアでお互いが持つ軍艦の数を制限しようと約束したワシントン条約を破棄しました。この頃から日本では、内 閣を倒して、自由を排撃し軍備を強化しようとする動きが出てきました。日本はドイツと防共協定(共産主義を防止する活動をする約束)を結んだりしました。 この頃、ドイツもロシアなどと戦える強い国になろうとしていたのです。
昭和11年(1936)にはベルリンでオリンピック大会が開かれました。放送が普及してきたので、この時選手の活躍がラジオで中継放送で伝えられ、日本中が沸きました。
同じ年に、また軍人が政府の要人を襲い高橋大蔵大臣などを殺害した2.26事件がおきました。中国国内では国民党と共産党の勢力争いがほぼ治まってしました。

  私が学校にあがる頃までの日本や世界の動きはおよそこんなものでした。戦争への足音は近付いていたのですが、一般の人はあまりそのことに気がついていな かったようです。むしろ、軍部や政治家たちの言っていることを信じて、日本が強い大きな国になることを夢見ていました。どこにも軍人の姿がありましたが、 それが格好よく見えたりしていました。
町には流行歌が流れ、商店街は賑わい、新しく鉄道の線路が作られたり、タクシーも走ったりしていました。 新しい童謡や童話が作られていたし、いろいろな絵本や雑誌も本屋に並んだり、学校でも伸び伸びと勉強する学童の姿がありました。人々は、昭和という時代は 明るい勢いのよい時代になると期待していたのです。その頃『昭和の子供』という歌がありました。当時の人々の希望や願いが現れていたように思われます。

  その頃幼稚園に通うのは恵まれた家庭の子供たちだけでした。学校にあがる頃までの私は、身体が弱くて外で友達と遊ぶことはあまりなくて、家の中で、母親か ら昔話や童謡を教わったり、ラジオを聴いたり、絵本を見たり、おもちゃで遊んだりしていました。おだやかな毎日でした。

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