戦争にふりまわされた小学校中学校時代
・・・動員そして戦災の体験など・・・

第2章 日中戦争の頃
(小学校・国民学校で)

(2)「兵隊さんありがとう」・・・子供たちの生活

兵隊さんのおかげです   日本軍の動きは早くて、中国の北の方ではじまった戦争は、たちまち南の方に攻め込み、その年のうちに南京・上海まで占領してしまいました。この勝ち戦が 日本の戦争への気持ちを高ぶらせるきっかけになったともいえます。国内では勝ち戦が続いたので、お祝いの旗行列まで行われました。その当時、日本の国民は 「この戦争はお国のための戦い、日本を護るための国民を守るための闘い」と教え込まれていました。また、兵隊さんたちは戦地で命懸けで闘って国を守ってく れているから、銃後の人が安心して暮らせるのだと、兵隊さんに感謝し、その活躍をみんなで応援していたのでした。
町では「兵隊さんありがとう」という次のような歌がよく歌われていました。
「肩を並べて兄さんと 今日も学校に行けるのは 兵隊さんのおかけです
お国のために お国のために戦った 兵隊さんのおかけです・・・・・」

慰問文・慰問袋   戦地で働く兵隊さんを慰問するためにも、各家庭や婦人会や学校の児童生たちは、『慰問袋』を作って送りました。袋には娯楽品・日用品などを詰め、児童生 徒は『慰問文』という手紙を書いてその中に入れたりしました。子供達の手紙や図画は戦地の荒んだ兵隊たちの気持ちを慰め、喜ばれたようです。
慰問袋や慰問文には『武運長久』ということばがよく用いられました。手柄をたてて無事に戻ってくるようにという人々の願いがこめられていたのです。
私も家の人といっしょに慰問袋を作り慰問文も入れて、近くの郵便局に持って行った思い出があります。
兵隊への感謝の気持ちを込めて作った慰問袋は、はじめは善意の人たちによって贈られていたのですが、そのうちに役所から町内会に作成の数を割り当てられたりするようになったようでした。戦争が長引くと、慰問袋を作る余裕などなくなりました。

(3)銃後の人達は・・・いろいろな組織が
まだ後に大変な戦争になっていくことなど、誰も想像していない時期でした。でも、戦争が始まったので、そのための用意が必要になります。人の確保・物の準備・組織作り・・・などいろいろと新しいことが始まったりしました。

隣組(となりぐみ)  昭和15年(1940年)になると、全国に町内会や部落会の末端組織として「隣組」が作られました。隣組は、10軒ぐらいを1組として隣近所の何軒かを単位にした集まりです。その頃に流行った隣組という歌がありました。
 この歌のように、『隣組』は本来近所付き合いや相互扶助を目的に自主的に組織されるものですが、国ではこの組織を利用して、国から命令や指示に利用したり、行政の人手不足を補ったりしようと考え、町内会のもとに隣組を制度としてたのです。
いろいろな情報や指令の伝達は『回覧板』で行いました。大事なお知らせが書いてあるので、これをうっかり見損なうと大変でした。当時はテレビもなかった し、電話のある家もほんのわずかで、いろいろな情報は新聞かラジオ放送で知るぐらいでした。身近な情報を知るには回覧板はとても大事でした。
隣組を単位に防空演習や勤労奉仕に参加したり、戦争のための資金を集めるための国防献金や国債の購入が割り当てられたりしました。上の歌詞の4番にあるように「まとめられたり まとめたり」がねらいだったのでしょう。

警防団  防空と消防のための地域組織として、待ちの男たちにより警防団が組織されました。その以前からあった消防団が戦時体制の下で変わったものですが、掲載の指揮下におかれ、消防・警報・灯火管制などの仕事を受け持っていました。
防空演習の時には、住民の防火訓練の指導をしたり、避難の誘導をしたりするのが仕事とでした。空襲の時、避難や事後処理には警防団の人達が活躍したので す。空襲警報が発令されると、メガホンで『空襲警報発令』と大声で地域を回っていた姿を思い出しますが、戦争が長期化すると、団員は年配者ばかりになって しまいました。

在郷軍人会   町には、軍隊に行った経験がある人たちで在郷軍人会という組織ができていました。会員の親睦・共済、福利厚生や予備役・後備役の兵隊の教育招集や戦時動 員などが主な仕事でしたが、地域の中でいろいろな役職に就いたりして戦争についての宣伝や教育にも力を貸していました。これも若い人達は招集されて年配の 人ばかり残るようになってきました。
私の兄が出征する時にも、町内の在郷軍人会の軍曹殿が家に来て、入隊についての心得などを話していました。

婦人会  銃後での活躍は目立ったのは、白いエプロン姿に「国防婦人会」とか「愛国婦人会」という襷(たすき)をかけて働いていた女性たいです。二つの婦人会は後に統合されて「大日本婦人会」となりました。
この婦人会は陸軍の支援のもとに戦争遂行に協力する団体として作られました。そして出征兵士の送迎・傷痍軍人や遺家族の扶助・勤労奉仕活動などを行うほか、防空演習や非常炊出しにも参加しました。
この会は希望者が任意に加入したのですが、昭和18年には、その人数は1585万人あったそうです。そのうち20歳以上の女性は強制的に大日本婦人会に加入させられました。

大日本青少年団   昭和16年には、大日本青少年団という組織が作られました。くわしいことは覚えていませんが、地域の組織として作られたようで、小学生もその中に組み入 れられていました。徽章や青少年団の歌もあった。多分、勤労奉仕や集団訓練を行う予定だったのでしょうが、学校や職場の関係もあり戦況も悪くなってきたの で、実際にはこの組織としての活動はほとんどできなかったようでした。

(4)灯火管制・防火演習
この頃から、戦争の時には飛行機による攻撃「空襲」への対応を考えなければならなくなっていました。
空襲があった時に、地上の灯火は空中からよく見えて爆撃の目標にされるということで、「灯火管制」が行われるようになりました。電球の回りを黒い布で覆っ たり、窓に黒いカーテンをかけたりして、光を外に漏らさないようにするのです。街灯も消すので、管制を行ったときは真っ暗です。でも、実際に空襲を受けた 時には照明弾を落とされたりしたので、灯火管制は役立たなかったようです。
空襲で爆弾や焼夷弾(*)を落とされたら火事になります。家や町の火事の消化をしたり、延焼を防いだりする訓練として「防火演習」が行われました。
演習の指導は警察や警防団の人が担当していました。隣組単位で、梯子に上ったり、水の入ったバケツをリレーして送ったり、火はたき(*)やとび口で消したりするのです。しかし、そんな消火活動は後の大空襲では全く無力でした。
また、「防空壕」を作りました。爆弾をよけるためのシェルターです。この時も隣組が協力して行ったりしていました。崖には横穴を掘ったものもありますが、 多くは土に穴を掘り、その上に屋根のように土で覆ったものでした。空襲の時、逃げ込んで難をを一時逃れた人もあったようですが、防空壕に直撃弾を受けた り、火や熱で防空壕の中で被害に遭った人もかなりあったようです。
[注]
焼夷弾・・・家屋や物資を火炎で焼いたり、人を殺傷したりする目的で作られた爆弾で、日本に空襲で落とされたのは油脂焼夷弾が多かった。油をゼリー状にして筒の中に入れ、着地するとそれが燃え上がるようなしくみになっていた。
火はたき・・・家屋が燃えたとき、たたいて火を消す道具。長い棒や竹竿のさきに縄や細い布を束ねてとりつけて大型のはたきのようなもの、先に水を浸してたたいたりした。

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