戦争にふりまわされた小学校中学校時代
・・・動員そして戦災の体験など・・・

第2章 日中戦争の頃
(小学校・国民学校で)

(3)弾丸や兵器を
 戦争になると、兵器や弾丸の材料となる鉄や金属、兵士や兵器を運ぶ船や車、兵士の食料・衣料などさまざまな物が必要となります。まして、戦場は中国やアジアの広い範囲に広がりました。日本は資源が少ない国なので、原材料や燃料などを外国に頼らなければなりません。しかし、戦争になると外国からの輸入が難しくなります。
 それで、国内ではいろいろな物資が不足し、市民は節約を迫られたり、我慢を強いられたりするようになりました。限られた資源を皆に分け与えるために『配給制(はいきゅうせい)ができました。一人ひとりに一定の割当が決められ、それ以上は買えなかったのです。また、材料がないと、その代わりになる材料で間に合わせるということで『代用品』というものがいろいろと工夫されました。

「ガソリン一滴は血の一滴」  どこの国でも、国を強くするための軍備や産業の充実にはエネルギーの問題が大きく関わります。明治の頃は資源の鉄と燃料の石炭の確保が大事でした。昭和になるとエネルギーは石油に頼るよにうなりました。今は原子力が大きな比重を持つようになりましたが、、、。
 太平洋戦争の原因の大きなものは『石油』をめぐる問題でした。戦争では航空機・車両・船舶と石油を使うことが多くなります。当時でも日本の石油の産出量は必要量の5%以下で、あとは外国から輸入していました。戦争のために必要量が増える一方、戦争をする日本には石油を売らないという国も増えたので、日本の石油不足は深刻になりました。「ガソリン一滴は血の一滴」という標語が街角にあふれていましたが、石油の大切さを物語っています。
 軍用に多く使われるので、町では石油を使う自動車を減らそうということで、タクシーの使用の制限やガソリンを使う自家用車の禁止とか、バスの路線や本数を減らすなど石油節約の対策が行われました。
 ガソリンが足りない分を代用燃料で賄おうという努力もありました。松の根を掘り出して、それから油をしぼり「松根油(しょうこんゆ)」を作ったり、「ひまわり」を植えて種を集めたりしました。アルコールをとるための「サツモイモ」も栽培されました。今ではバイオ燃料という言葉がありますが、その頃の技術で得られる代用燃料の量はほんの気休めになるだけでした。
 民間のバスやトラックは、ガソリンを使わない「木炭自動車」というものが走っていました。木炭自動車では車体の後部や側面に設置した釜の中に細かい木片を入れて蒸焼きにします。その時発生するガスを燃料として使うのですが、ガスの力が弱くスピードは出ないし、急な坂は登れません。人が歩くくらいの速さで急坂をあえぎあえぎ登るバスの姿が記憶にあります。鉄道でもこの装置で走る気動車がありました。
 重工業の工場や船の燃料などには、質の良い石炭を使わなければならないので、家庭では質の悪い石炭しか手に入らなくなりました。

配給制度 代用食  戦地の軍隊には武器とともに食料や生活用品を送らなければなりません。輸送途中の損害も考えれば、その分食料もふだんより大量に必要となります。しかし、農村でも人手が足りなかったり、肥料が充分に行き渡らずで、収穫量が確保できません。ますば主食の米をどう確保するかが大問題でした。
 そこで、白米は使用禁止。七分搗き(つき)の米や麦飯を食べるようになりました。戦争が激しくなるとますます不足するので、米は配給制になって米穀手帳(べいこくてちょう)を持たなければ買えないようになりました。普通の大人は1日分380グラム(2合3勺)と決められました。その頃の食習慣では大人は1日500グラム(3合)ぐらい食べていましたから、配給だけでは足りません。そこで、足りない分は麦や芋などで補ったりしました。米の代わりの食料を『代用食(だいようしょく)』とよんでいました。ご飯も量を増やすために、芋や豆をたきこんだ御飯や野菜を入れた雑炊にして食べたりしました。米の足りない日は野菜の汁の中に小麦粉の団子をいれた「スイトン(水団)」で間に合わせました。今時々戦時体験などでスイトンを試食することがあり、「これならたべられるじゃ・・・」などと話す人がありますが、当時のスイトンは小麦粉も質が悪かったし、だしも醤油も十分にないので、おいしいとはいえませんでしたが、それでも腹いっぱいになればよいと思っていたのです。醤油を作る大豆も不足したので、アミノ酸醤油などが使われました。

[注]アミノ酸醤油・・・醤油は麹(こうじ)を使って大豆を発酵熟成して作るものだが、アミノ酸醤油は豆かすや麩(ふ)などを塩酸で煮て、それらの蛋白質をアミノ酸に変え、苛性ソーダで中和して作る代用醤油である。どんな蛋白質を使うかも工夫され、イワシを原料にした醤油さえ作られました。

 主食の足しになる麦や芋やカボチャなどを作れということで、スイカやメロンなど果物は栽培は禁止されました。食べられる野草を探して使うように勧められたりもしました。ヨモギやタンポポの葉や、サツマ芋の葉や蔓(つる)なども貴重な食料でした。
 米が足りなくなると、麦や粟(あわ)や大豆などが代わりに配給されるようになりました。戦争の末期にはそれさえも間に合わなくなっていました。芋類のほか大豆から油を絞った豆粕(まめかす)が米の代わりに配給されることさえありました。(豆粕とは大豆から油を絞った豆かすで本来は肥料に使われるものです。)それも、予定した日に間に合わないこともありました。
 肉や魚、野菜をはじめ、味噌・醤油・砂糖などの調味料も配給制になりました。どれも必要な量には足りず、節約しながら使いましたが、絶対量が不足していました。砂糖はそのうち全く配給されなくなりました。魚もアジやマグロなどはまずお目にかかることがなく、今日の配給は「スケソーダラ」だよなどといわれたことが耳に残っています。戦争の激しくなった頃は、野菜や魚の配給も月6~7回だったようです。
 タバコもマッチも配給制。最後の頃はたばこも一日3~4本の割当で、足りなくなるとトウモロコシの毛をタバコの代わりにキセルに詰めて吸ったりする人もいました。
 酒やビールももちろん配給制で少量ずつ。清酒は米から作る醸造酒ではなく、アルコールに葡萄糖や有機酸・アミノ酸などを加えて作る合成酒でした。
 家庭の庭でも、花など植えずに芋や野菜を作りました。家庭農園というと格好よいのですが、実際には少しでも食料を得たいと必死だったのです。空地や公園の広場なども耕して畑にして、食糧生産をしました。町の人や学校の生徒が作業をしました。

衣料切符・国民服  燃料や食料ばかりでなく、いろいろな物が戦争のために使われ、国民はそれでも「戦争に勝つまでは」「お国のために」とがまんし協力していました。贅沢品(ぜいたくひん)は持ったり使ったりしてはいけないことになりました。新しいものもなるだけ買わないようにしていました。「欲しがりません勝つまでは・・・」といいう標語が幅をきかせていました。
 衣料品・日用品の何もかもが配給でした。衣類も木綿は軍隊でたくさん必要だからと一般の人が使うものは早くから製造が制限されてました。衣類も配給制で衣料切符というものがないと買えませんでした。それも満足できるほどのものは買えません。古い木綿の衣類などを改良したり、縫い直したり、破れた服などを継ぎ当てたりして大切に使いました。
 革の製品も軍隊で使うからと製造を制限されたり、販売を中止されたりしました。一般の人は牛革の鞄や靴が使えないので、豚の革のものはもちろん、鯨の皮の靴などまで出ました。町の人達が使う靴や鞄はたいてい布製でした。
 木綿や毛糸が足りないので、その代わりに作られたのが『ス・フ』という新しい繊維でした。『ス・フ』は「ステーブル・ファイバー」の略で、紙に使うパルプを原料にして作った人造繊維です。あまり丈夫ではなく、すぐに切れたりするので、「ス・フかス・グか、切れる」と言われたりしましたが、ほかに布が手に入らないのでしかたなくこれを使いました。(ナイロンやテトロンは戦後に生まれた新しい化学繊維です)
 大人の服装も、背広の洋服や和装の着流しはだんだん姿を消し、非常の時に活動しやすいような服装になってきました。そんな中で、「国民服」が制定され、男の人はそれを着用するように言われました。女性は「モンペ」をはきました。国民服はカーキー色の軍服と同じような形のものです。中学校の制服も襟詰の服ではなく、軍隊と同じ形のものになりました。
 警防団の人も、在郷軍人もカーキー色の制服です。布も足りないその頃に、新しく服を作るのは無駄ではないかという声もありましたが、国民服を着ないと、その人は非国民だ と言われたりするので、町中のどこもかしこもカーキー色一色になった感じでした。
 衣服には、空襲などで死んだり怪我をしたりした時に身元がすぐにわかるようにと男も女もみんな胸に名前や住所を書いた布を縫い付けてありました。

[注]カーキー色・・・黄色に淡い茶のまじった色。枯草色。カーキーとは土埃(つちほこり)のこと。土や枯草と似た色なので戦場で相手から見つかりにくく、軍服などに使われた。
 モンペ・・・袴のかたちをして足首のくくれているだぼだぼなズボンのよう衣服で、労働や保温のために東北の農村などで使われていたが、和服の上からでも洋服の時にも使えるので、戦時中はこれが女性の日常の服装となった。モンペは木綿の和服などを自分で直して作ったものが多かった。

あれもこれも我慢して  戦争の頃は、節約節約で日常の生活もいろいろ制約されるようになりました。銭湯(大衆浴場)は朝から営業していて、朝風呂を楽しむ人もありましたが、燃料の石炭が不足したり、朝風呂はぜいたくだということで禁止されたのです。上がり湯を使う量も制限されました。 兵器の工場に使う電気を確保するために、電力の節約も必要でした。町の広告用のネオンサインは使用中止、エレベーターも何かと使用制限が行われました。
 髪型も、男性は長髪を禁止され、丸刈りにさせられました。女子も長い髪をかけることはご法度で、後ろで束ねて結ぶようにと言われました。その頃、電気でウェープをかけるパーマネント・ウェーブというものがありましたが、この髪型は贅沢だということで、これをしていると子供達からもからかわれ、「今は非常時節約時代 パーマネントはやめましょう」という歌でからかわれました。男が大勢戦場に送られるようになると、床屋は女性の仕事だとして男がすることは禁止されました。
 市電の車掌はみな女性となり、女性の運転士も働いていました。鉄道では、駅の出札は女性の仕事になりました。寝台車や食堂車がなくなったり減らされたりしました。兵隊や軍需物資の輸送が忙しいので、一般の人は遠距離の乗車券がなかなか買えなくなりました。切符を買うために行列を作って待っている姿も見られました。
 たくさんの出版社や新聞社が出していた、新聞や雑誌は合併したり、発行を制限されたりしました。新聞はページ数を減らしました。しまいには、夕刊を廃止したり、タプロイド版という小さな紙面のものに変わったりしました。

ページの先頭へ