戦争にふりまわされた小学校中学校時代
・・・動員そして戦災の体験など・・・

第2章 日中戦争の頃
(小学校・国民学校で)

4.太平洋戦争が近付く
(1)ABCD包囲陣
 日本と中国の戦争が長引くことを、多くの外国は喜びませんでした。国外からは日本が早く戦争をやめるようにと働きかけてきていましたが、日本の軍部は言うことをききません。戦争が早く片付かないのは、よその国が中国に戦争を助けるための兵器や物資を援助しているからだと、その援助物資を運ぶ道や場所の攻撃を始めました。フランス領インド支那(今のベトナム・カンボジアなど)にまで軍を進めました。このような動きを見て、アメリカは日本へ石油の輸出を停止し、他でも自分の国やその植民地からの日本への物資の輸出は取りやめたり、船の交通を制限したりしたので、日本は戦争に必要な物資が来なくなりました。この状態を「ABCD包囲陣」といいました。
 Aはアメリカ(Ameria)、Bはイギリス(Britain)、Cは中国(China)、Dはオランダ(Dutch)のことです。これらの国が日本の戦争を邪魔しているからといって、ついに昭和16年12月8日にこれらの国との戦争が始まってしまったのです。
 その前から、戦争になりそうだと、国中をあげて戦争の準備が進められていました。そして、国民の生活もいっそうたいへんになってきたのです。国の指導者達は、この戦争は欧米の国から虐げられてきたアジアの国々を助けるための戦争、東洋平和のための戦争だと宣伝して、国民の多くはそう信じ込まされてきました。

(2)国民学校
 昭和16年(1941)になると、戦争に勝つための強い国民を作るのだといって、小学校は国民学校という名前になり、教科の内容も教科書も改定されました。その時、私は6年生になっていました。
 それまで義務教育は小学校尋常科6年間で、小学校高等科や中学校は希望者が進学することになっていました。国民学校では、初等科6年、高等科2年間の計8年間が義務教育となりました。しかし、この制度は戦争が激しくなったために完全に実現できないままでした。戦争が終わって昭和22年(1947)に学校教育法が公布され、現在のような小学校6年間、中学校3年間を義務教育にする制度が決まりました。
 国民学校の教科は、国民科(修身・国語・国史・地理)、理数科(算数・理科)、、体育科(体育・武道)、芸能科(音楽・習字・図画・工作・裁縫家事)でした。授業がそれまでとどう変わったかは憶えていませんが、戦争に勝つための丈夫な心や体ということは強調されました。精神修養ということでいろいろな訓話を受けました。
 体育の授業は、強い体を作る・忍耐力や持久力を養うことにかなり重きがおかれました。運動会では棒倒しや騎馬戦など勇ましいものが花形でした。整列や行進なども団体行動の練習も行われました。
 武道という教科ができて、剣道や柔道、女子は薙刀(なぎなた)の稽古などが取り入れられるようになりました。学校によっては竹槍の訓練もあったようです。しかし、学校に武道場はなかったし、先生も慣れていなかったので実際の試合をすることはありませんでした。実際の技能よりも、戦意高揚(戦争に勝とうという気持ちを高めること)が目的だったのではないかと思います。
 その頃は物資が乏しくなり、運動靴も学校に割り当てられ、クジ引きで当たらなければ手に入りませんでした。体操の時間は裸足(はだし)のこともありました。強歩(競歩ではなく)の訓練も強化されました。市の主催で行われた強歩大会に参加しました。市役所前から金沢まで往復30Kmの道のりを歩くのでしたが、その時履いていた運動靴が小さかったので両足の親指の爪を痛めてしまった思い出があります。
 音楽の教材にも戦争に関係する歌が増えていたのでしょうが、私たちはあまり歌ったおぼえはありません。音楽担当の先生は自作の『世界の民謡』というテキストでいろいろな歌を教えてくれたりしました。ただ、その頃「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド」は外国の言葉だから「ハ・ニ・ホ・ヘ・ト・イ・ロ・ハ」と歌わされることになっていました。「ドレミファ」は階名「ハニホヘ」は音名で意味が違うはずですが・・・。敵の飛行機の爆音を聞き分けるためには音感教育が必要だということで、「ハホト(ドレミ)」「ハヘイ(ドファラ)」「ロニト(シレソ)」と和音を聞き取る勉強がありました。
 郊外では、地域に青少年団が作られましたし、海に親しむことを目的にした海洋少年団というものがあり希望者が参加していました。ボート漕ぎや手旗信号などの訓練をうけたりしたようです。

(3)太平洋戦争が始まる
 アメリカやイギリスとの戦争が始まったことは、朝のラジオ放送で聞きました。その朝、登校すると先生がそのニュースを校庭の掲示板に書いていたことがなぜか記憶に残っています。放送を聞かなかった子供もいたからでしょうか。
 それまで毎年、6年生は修学旅行で伊勢の皇太神宮の参拝に行っていたので、私たちもそれを心待ちにしていました。鉄道の輸送が厳しくなっていたので、私たちは12月に横浜から船で伊勢まで行く計画ができていたのですが、戦争が始まったので、それが中止になりました。横浜市では各学校から代表が1~2名ずつ参加して団体を組み、戦勝祈願に伊勢神宮へ出掛けたのでした。
 校舎の窓から立入禁止になった野毛山公園を見ると、高射砲陣地が作られて。訓練のために動かしている砲身がみえたりして、戦争が身近になったことを感じました。
 戦争だという興奮や先行きの不安はありましたが、開戦から4ヶ月経って国民学校の修了式が行われました。私たちは国民学校の第1期生として、一本松国民学校から巣立ったのでした。国民学校は高等科を終って、はじめて卒業証書が出るという制度だったので、初等科6年が貰ったのは卒業証書ではなく修了証書でした。
なお、国民学校は戦後の昭和22年に再び『小学校』という名に戻り、高等科はなくなって、新制度の『中学校』がつくられました。国民学校が作られた時に8年間の義務教育を目指しながらできなかったことが、ここでやっと実現したわけです。

 昭和9年生まれの人が「ぼくは小学校に行ってないよ」と冗談混じりに話したことがありますが、国民学校の歴史は6年間で幕を閉じました。今では、国民学校があったことさえ、忘れられています。

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