戦争にふりまわされた小学校中学校時代
・・・動員そして戦災の体験など・・・

第2章 日中戦争の頃
(小学校・国民学校で)

3.戦争が長引いてくる
 中国の北部、北京に近い盧溝橋(ろこうきょう)という所で始まったこの戦争は上海にも飛火して、戦争の範囲がだんだんと南へ広がり、やがて中国の首都南京まで占領しました。中国の政府はそこから逃れて、揚子江の中流にある武漢三鎮(漢口・武昌・漢陽)という所に移りました。はじめの頃は日本の国内では5勝戦のお祝いの旗行列までしたのです。
そのあたりで戦争が終わっていればよかったのでしょうが、日本軍はさらに中国の内部まで攻め入って、次の年には漢口・武昌・漢陽まで占領したので、中国政府は首都を上流の重慶に移しました。日本軍は更に奥地まで進もうとして重慶をさんかに爆撃しましたが、重慶は守りが固く、戦争が長引き始めました。
3年目には、満洲とソ連の国境のノモハンにソ連軍が突然侵入してきました。予想しなかった激しい攻撃に遭って、日本軍が大きな損害を受けたのです。このあたりから戦争は複雑な様子を見せてきました。イギリス・アメリカなど中国を援助する国も出てきて、戦闘はしないけれど中国へ戦争に必要な物資を補給したりするようになりました。それを止めようと日本軍は更に南に戦線を広げて、戦争は何時終わるかわからない状態になりました。
国内では軍事予算が増し、軍隊に招集される人は多くなり、生活物資の制約や日常の行動を制限されるなど、だんだんに国民への締め付けが強くなったいったのです。

(1)小学校生活は
 『教育勅語(きょういくちょくご)』  3年、4年の頃は、戦争中とはいいながら、まだまだ自由な雰囲気が残っていました。勉強でも「兵隊さんありがとう」はありましたが、厳しいと感じることはありませんでした。戦争はいつか勝っておしまいになるというような期待もあったのでしょうか。それでも、戦争の長期化にしたがってだんだん戦争の影響が大きくなってきたのでした。
学校では、元旦や紀元節(建国の日)天長節(天皇誕生日)の式などの時、校長先生が教育勅語(天皇の名で教育に対する基本的な考えを示したことば)を読むのをかしこまって聞いたりしました。朝礼訓話でも、戦地の話などを聞くこともありました。
校長室には、御真影といって天皇・皇后両陛下の写真が飾ってありました。当時は
、天皇は神様だといわれ、校長室の前を通る時には御真影に最敬礼して通ったものです。

丈夫な体・たくましい心  丈夫な体の少国民を育てるといって、体育などは重視されました。学校は野毛山公園の近くにありましたが、毎月1日には、児童全員が4Kmほど離れた保土ヶ谷の狩場町にあった児童遊園地までの「歩け歩け」の行事がありました。長い距離なので厳しいと思う時もありましたが、途中の岩井原の畑や永田の田圃などを通り、四季の自然に触れたりして楽しい面もありました。
夏には毎朝学校までラジオ体操に出かけました。出席カードに印を押してもらうのが楽しみでもありました。水泳は磯子の海に海水浴に出かけたりしました。今の磯子駅のあたりは良い海水浴場で、夏は学童のための施設が開かれていました。
体育(当時の教科の名は体操)の授業では、ドッジ・ボールぐらいはあったと思いますが球技などはほとんどなく、鉄棒や跳び箱などの器械運動が盛んでした。瞬発力や敏捷性もねらっていたのでしょうが、持久力や忍耐力ということも重視されたようで、腕立て伏せや高鉄棒にぶら下がって腕を屈伸させる懸垂などを随分やったものです。学校ではあまり見られませんが、平行棒とか肋木(ろくぼく)などを使った体操もよくやりました。

 

 戦争に関係する情報が多いので、軍艦とか飛行機への関心も高まっていました。図画も軍艦や飛行機を書いたものが多くなりました。
工作では細い角材や竹ひごを使った模型飛行機やグライダーを作るのが盛んでした。学校ばかりではなく、家でも作って工程や原っぱなどで飛ばしっこをしたものです。複雑な模型より単純でよく飛ぶ物が好まれました。
(この頃、航研機が長距離飛行の世界記録を作ったり、朝日新聞社の神風号が東京~ロンドン間飛行の記録を作ったり、加藤はやぶさ戦闘隊の飛行機の活躍が伝えられたりと飛行機に対する関心が高まるニュースが続いていました)

子供たちの遊び  子供たちの遊びでは、戦争ごっこ(兵隊ごっこ)も流行っていましたが、私たちはあまりやった記憶がありません。近くに原っぱや空地がなかったせいでしょうか。
狭いでいつも校庭や公園などでよくやったのは、「三角ベース」というボール遊びや「海戦ごっこ(母艦水雷)」という鬼遊びでした。「海戦ごっこ」は、その頃の世相によくあっていたので、子供達に人気の遊びのひとつでした。

 放課後は、近くの野毛山公園が良い遊び場でした。でも、その後に公園に高射砲陣地が作られて、中には入れなくなりました。
友達何人かで岩井原の畑や永田の田圃へ出掛け、虫や蛙を追いかけたりしました。学校での「歩け歩け」いつも通る所なので、地理に迷うことはありませんでした。
時には友達と、少し離れた横浜港まで歩いて行きました。横浜港へは諸外国の船の出入りもまだ多く、港は賑わっていました。軍艦はあまり見かけませんでした。
鎌倉丸や新田丸・ブラジル丸などという氷川丸より大きな船も泊まっていましたが、戦争で皆海に沈められてしまい、残ったのは氷川丸だけでした。

(2)世間の様子
昭和15年(1940)には、東京オリンピック大会が予定されていましたが、戦争のために実現しませんでした。同じ年に紀元2600年の祝賀行事がいろいろ行われました。(その頃は歴史で日本の国は出来てから2600年経っていると教えられていました)学校でも町でも紀元2600年の歌を歌われました。
地域では、町内会や隣組の活動が厳しくなってきました。日常生活では、ぜいたく品が使用禁止されて、石油・金属・食料・衣料などすべての物資の統制が強くなり、配給制や公定価格が決められました。『欲しがりません勝つまでは』『ぜいたくは敵だ』という言葉をよく聞かされました。
ラジオに国民歌謡という歌番組がありました。はじめは誰もが親しんで歌える明るい歌ということで始まった番組でしたが、戦争が進むにつれて、「愛国行進曲」「太平洋行進曲」「愛馬進軍歌」などのような戦争に関係した歌が増え始めてきました。絵本や「少年クラブ」などの少年雑誌でも戦争の話や絵が多くなってきていました。

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